ブログに時々コメントを下さる、オスカーさんという方がいらっしゃいます。

この方は大変な読書家で、年200冊もの本を読んで、その感想や寸評をブログに(アメブロではなく、Livedoor blog に)書いている方です。

そのオスカーさんが一昨日の記事で、茨木のり子さんという詩人の詩を紹介されていました。

次のような詩です。

 

 

さくら      茨木のり子


ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

 

 

茨木のり子という方は、1927年生まれ、2006年没。

15歳から19歳までが戦争にあたり、飢えや空襲の恐怖も体験したそうです。

 

「さくら」というタイトルに、花見の明るい詩かと思ったら、

「ことしも生きて さくらを見ています」という出だしに、いきなりハッとさせられる。

そして後段、

「あでやかとも妖しとも不気味とも 捉えかねる花のいろ」という、花の色の感じ方にまたドキッとする。

そして、

「さくらふぶきの下を ふららと歩けば 一瞬 名僧のごとくにわかるのです 死こそ常態 生はいとしき蜃気楼と」

ここで、私の心はグサッと抉られた。

 

「死こそ常態 生はいとしき蜃気楼」

この言葉こそは、私が若き日から体感しつつも言葉に出来なかった私の想念だったのです。

私は、「無」から「生」が生じて、また「無」に帰す、という言葉でしか表現出来なかった。

そしてその「生」というのは、ほんの一瞬の、一幕の舞台のように思えた。しかし、その舞台は一瞬ではあるけれど、全く儚いものではなく、さまざまな喜びや美に溢れた一幕でもあると。

私が、人生というのは、「無」から「生」が生じ、一幕の舞台を演じ、また「無」に帰すものとしか表現出来なかったことを、

「死こそ常態 生はいとしき蜃気楼」 という言葉で見事に表現されていると思った。

 

「さくら」という詩との出会い、そして茨木のり子さんという詩人との出会い、

今日は私にとって、衝撃の出会いの日になりました。

 

今、まさに満開の桜が、その花びらを散らし始めたとき、

” さくらふぶきの下を ふららと歩けば ”

” 生はいとしき蜃気楼と ”

見えるだろうか

 

きっと、美しき、儚き、そして いとしき蜃気楼に見えるだろう。