奈良旅行三日目の平成31年(2019年)4月30日(火・祝)、當麻寺を後にした私は、レンタカーで、奈良県桜井市三輪に鎮座する大神神社(おおみわじんじゃ)に向かいました。

 

◇大神神社

 これまで大神神社を参拝した際は、大鳥居の写真を撮ることができませんでしたが、今回は奈良県道169号から奈良県道238号に左折する大神神社参道入口の三叉路で、ちょうど赤信号となったので、車窓から大鳥居を撮影することができました。

 

(大神神社/大鳥居)

 

 この大鳥居は、昭和59年(1984年)に昭和天皇大神神社を御親拝したのを記念して昭和61年(1986年)に建てられたもので、車道をまたぐ鳥居としては、日本一の大きさだそうです。

 

 ちなみに、これまでこのブログでもお話ししているように、藤原氏所縁の寺社仏閣を訪れると、急に強い雨が降り出すなど、拒絶されているような感じになるのですが、大神神社は、藤原氏とは全く関係のない神社であるにも関わらず、大鳥居を潜った時点では、写真のとおり、雨雲が立ち込めていました。

 

 大鳥居を潜って、2、3分ほどで、二の鳥居前の駐車場に着きました。

 

(大神神社/社号碑)

 

 大神神社を参拝するのは今回で3回目ですが、大好きな神社の1つなので、二の鳥居とその手前にある社号碑の前に立つと、胸が高鳴ります。

 

(大神神社/二の鳥居)

 

 二の鳥居をくぐると、空気感が一気に変わりますが、大神神社の境内の清浄な空気感は、大好きです。

 

(大神神社/参道)

 

 二の鳥居から4分ほどで、拝殿に着きました。

 

(大神神社/拝殿)

 

 大神神社は、大神神社の東に聳える三輪山御神体なので、本殿はなく、この拝殿から、御神体の三輪山を拝みます。

 現在の拝殿(国の重要文化財)は、江戸幕府第4代将軍徳川家綱が、寛文4年(1664年)に再建したものです。

 

 私も、拝殿から三輪山を拝ませていただいた後、拝殿の手前の授与所で、御朱印をいただきました。

 

 

(大神神社/御朱印)

 

 

 御朱印をいただいた後、拝殿の北側にある祈祷殿に向かいました。

 

(大神神社/祈祷殿)

 

 祈祷殿は、その両脇にある儀式殿参集殿と併せて、平成の大造営で、平成9年(1997年)に建てられたものです。

 

(大神神社/祈祷殿)

 

 祈祷殿の前の参拝記念ボードと一緒に記念撮影している人がいたので、撮影が終わってから近づいてみると、この日の日付「平成31年4月30日」と記されていました。

 今上天皇陛下(平成天皇)の生前退位により、この翌日5月1日に、皇太子徳仁親王殿下が御即位され、新たな元号は、令和となります。つまり、平成最後の日に、私は大神神社を参拝することができたのです。

 

 ちなみに、参拝記念ボードの左下に、赤色の3つの鳥居が描かれています。

 

 私はまだ拝見したことはないのですが、これは、御神体である三輪山と、拝殿とを区切る場所に立っている三ツ鳥居を表しているものと思われます。

 三ツ鳥居は、全国でも珍しいのですが、この大神神社三ツ鳥居の真相については、次回の後編で、考察したいと思います。

 

◇狭井神社

 

 祈祷殿の参拝を終えた私は、祈祷殿の北側にある狭井神社(さいじんじゃ)へと向かいました。

 

(大神神社/狭井神社への参道)

 

 途中、市杵島姫神社があるのですが、そこは後で参拝することにして、先を急ぎました。

 

 平成26年(2014年)10月11日(土)に大神神社を参拝した時は、時間の関係で御神体の三輪山に登拝することはできなかったのですが、平成27年(2015年)4月24日(土)に再び大神神社を参拝した時は、三輪山に初めて登拝することができました。

 今回は、平成最後の日なので、三輪山に登拝するため、先を急いだのですが、狭井神社の向かって右脇にある三輪山登山口に行くと、なんと、「本日の入山を禁止致します。」と書かれていました。

 理由は、「御代替わりにあたり神社奉護の為、特別警戒中です。つきましては、ご神体護持のため」と書かれていました。

 

(大神神社/三輪山登山口)

 

 私も、後で調べて分かったのですが、大神神社では、前日の平成31年(2019年)4月29日には、今上天皇陛下(平成天皇)の御譲位御安泰祈願祭が、昭和祭と併せて行われており、さらに、改元がされる令和元年(2019年)5月1日には、拝殿で「践祚改元奉告祭」が行われることになっていたそうです。

 私は、そんな時だからこそ、三輪山に登拝したいと思ったのですが、同じように考える人が殺到して、警備が困難になるので、一律入山禁止としたのかもしれません。

 

 

 入山禁止では仕方ないので、狭井神社を参拝し、帰ることにしました。 

 

(大神神社/狭井神社)

 

 

 狭井神社の脇に立つ説明板によると、狭井神社の正式名称は、「狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわあらたまじんじゃ)」といいます。

 

(大神神社/狭井神社)

 

 主祭神は大神荒魂神、配祠神は、大物主神媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと。『古事記』では比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と表記。)、勢夜陀多良姫命(せやだたらひめのみこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)と記されています。

 

 大神神社の由緒として、『古事記』には、大物主神が、出雲の大国主神の前に現れ、国造りを成就させるために、「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と述べ、三輪山に祀られることを望んだと記しています。

 また、『日本書紀』では、大物主神は、大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗り、同じように、三輪山に祀られることを望んだと記しています。

 

 神様には、荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)があると考えられていて、和魂は、優しく平和的な側面、荒魂は荒々しい側面をいいます。そして、和魂は、さらに幸魂奇魂の2つに分けられ、幸魂は運によって人に幸を与える働き、奇魂は、奇跡によって人に幸を与える働きを表しているとされています(これとは別に、和魂幸魂奇魂に分かれるのではなく、神様には荒魂和魂幸魂奇魂の4つの並列の側面があるとする考えもあります。)。

 

 『日本書紀』によると、大物主神は、大国主神幸魂奇魂であると名乗って、三輪山に祀られることを望んだとされているので、御神体の三輪山に祀られているのは、大国主神幸魂奇魂ということになります。そうすると、大国主神荒魂は、大神神社では祀られていないことになります。

 

 その荒魂が、狭井神社の説明板で主祭神として記されている大神荒魂神で、それを祀っているのが、狭井神社になるわけです。

 

 わかりにくいですが、この説明だと、大物主神大国主神和魂(=幸魂奇魂)で、大国主神荒魂大神荒魂神で、大物主神大神荒魂神大国主神となると思われます。

 そのため、狭井神社の主祭神に大神荒魂神が記され、配祠神には、大国主神の別の側面とされる大物主神が記されていることは、整合性が取れることになります。

   

◇市杵島姫神社

 

 狭井神社の参拝を終えた私は、来た参道を戻って、鎮女池に向かいました。

 

(大神神社/鎮女池)

 

 鎮女池には、市杵島姫神社が鎮座しています。

 

(大神神社/市杵島姫神社)

 

 御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)です。

 

(大神神社/市杵島姫神社説明板)

 

 説明板には、市杵島姫命は、素戔嗚大神(すさのおのおおかみ)の御子神で、水の守護神とされ、安芸の宮島の御祭神として広く去られており、弁財天とも称されている旨が記されています。

 

◇若宮社

 

 市杵島姫神社の参拝を終えた私は、祈祷殿の方に戻らず、そのまま参道を南に下って、摂社の若宮社を参拝しました。

 

(大神神社/若宮社)

 

 若宮社は、大直禰子神社とも呼ばれています。

 

 したがって、その御祭神は、大直禰子命(おおたたねこのみこと。『日本書紀』では大田田根子(おおたたねこ)と表記。『古事記』では意富多多泥古(おおたたねこ)と表記。)です。

 この
大直禰子命大神神社の関わりについては、『日本書紀』に次のような出来事が記されています。

 崇神5年(紀元前93年)、疫病が流行り、人口が半減。翌年、百姓(おおみたから)は土地を手放し、流浪し、国に叛く者があり、憂慮した
崇神天皇は、天照大神(おまてらすおおみかみ)と倭大国魂神を祀ったものの、うまくいきませんでした。

 崇神7年春2月、
崇神天皇が神亀の占いをすると、三輪山大物主神が神託を下しました。
 
大物主神の神託によると、国が治まらないのは、大物主神自身の意思であるので、大物主神の子孫の大田田根子大物主神を祀らせれば、平穏は戻るとのことでした。

 そこで、
大田田根子を捜し出し、神託のとおりにすると、世は平穏を取り戻したそうです。
 そして、この
大田田根子の末裔とされるのが、古代有力氏族の1つである三輪氏大神氏大三輪氏)です。

 これが、『古事記』、『日本書紀』などに記された
大神神社の御祭神である大物主神と、摂社である大直禰子神社の御祭神で、三輪氏の祖である大田田根子(大直禰子命)との関係性です。

 

 『婆娑羅日記Vol.19~高野山旅行記in2014②(初日・第弐編)』でもお話ししましたが、『日本書紀』には、三輪山は、天皇霊が祭られていると記載しています。しかし、天皇家の祖神は天照大神で、それを祀るのが伊勢神宮であるという事実と、矛盾するように思えます。

 その他にも、大神神社には、記紀の説明に違和感を覚えることが多々あります。

 

 私が愛読している歴史作家の関裕二氏は、『神社が語る古代12氏族の正体』(関裕二/祥伝社新書)などの様々な著書の中で、神武天皇大田田根子同一人物で、神武天皇は、出雲の神である大物主神末裔でもあるとの大胆な推理を展開しています。

 

 関裕二氏の推理も非常に興味深いのですが、これまでこのブログでもお話ししている、古代の出雲王朝東王家である富家(とびけ。登美家とも表記。向家とも称する。)が口伝で伝える歴史(通称「出雲口伝」)から考察していくと、大神神社の様々な事象が、無理なく説明できることに気付きます。

 

◇次回予告

 前述のとおり、次回は、出雲口伝から、大神神社の違和感について、謎解きをしていきたいと思いますが、大神神社に関する違和感に対する謎解きをしていくためには、このブログで何度かお話ししてきた出雲口伝の一旦だけでは足らず、出雲王朝成り立ちからお話ししていく必要がありますので、次回から2回にわたり、大神神社に関する違和感の説明に必要な範囲で、出雲口伝の内容をさらに時代を遡ってご紹介させていただきたいと思います。

 

 

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