奈良旅行三日目の平成31年(2019年)4月30日(火・祝)、當麻寺伽藍三堂(本堂、講堂、金堂)を拝観した私は、當麻寺の真言宗の子院である中之坊に向かいました。

 

◇當麻寺中之坊

 

 前回お話ししたように、當麻寺は元々真言宗でしたが、南北朝時代に浄土宗も受け入れ、真言宗と浄土宗が並立・同居することになっており、境内には、真言宗の子院と、浄土宗の子院があります。
 
中之坊は、真言宗の子院になります。

 

(當麻寺/中之坊説明板)

 

 説明板によると、中之坊は、白鳳時代の當麻寺創建に伴い、役行者が開いた道場で、當麻寺最古の僧坊だそうです。

 そして、奈良時代、第11世弘實雅が女人禁制を解いて中将姫を迎え入れたと伝わります。

 

 拝観受付をして中之坊の境内に入ると、中将姫剃髪堂がありました。

 

(當麻寺/中之坊・中将姫剃髪堂)

 

 中将姫剃髪堂には、導き観音立像が安置されています。

 

(當麻寺/中之坊・香藕園)

 

 中之坊境内にある香藕園(こうぐうどう)は、大和三名園の1つで、心の字を象った池から、国宝の三重塔・東塔が見えます。

 香藕園は、説明板によると、第111代後西天皇をお迎えするため、片桐石州によって整備、造営されたものだそうです。

 

 この片桐石州は、片桐且元の弟の片桐貞隆の長男で、大和小泉藩第2代藩主を務めましたが、大和郡山藩主松平忠明や、近江小室藩主小堀遠州などとも茶席を共にする仲で、茶人として名を馳せました。

 水戸藩第2代藩主徳川光圀、会津藩初代藩主保科正之、平戸藩初代藩主松浦鎮信は、茶道においては、片桐石州の門弟にあたります。

 片桐石州の父の片桐貞隆は、兄の片桐且元よりも気性の激しい武将だったと伝えられていますが、片桐石州の母は、茶人今井宗久の子である今井宗薫の娘なので、片桐石州の茶人としての才は、母のDNAを受け継いだのかもしれません。

 

 香藕園を歩いて行くと、書院があります。 

 

(當麻寺/中之坊・書院)

 

 そして、その先に、茶室双塔庵丸窓席があります。

 

(當麻寺/中之坊・茶室双塔庵)

 

 丸窓席も、片桐石州が、後西天皇をもてなすために作ったものとされています。

 

(當麻寺/中之坊)

 

 當麻寺は、牡丹の名所としても知られており、中之坊の境内には、この時期、色鮮やかな牡丹が咲き誇っていました。

 

 

(當麻寺/中之坊)

 

 

(當麻寺/中之坊)

 

 境内には、當麻寺所縁の釈超空が、當麻寺の練供養会式を回想して詠んだ歌も掲げられていました。

 

(當麻寺/中之坊)

 

ねりくやう すぎてしづまる 寺のには はたとせまへを かくしつゝゐし

 by 釈超空

 

 釈超空は、民俗学者折口信夫(おりぐちしのぶ)の歌人としての号ですが、学生時代に中之坊に滞在していたそうです。

 

 

 また、佐藤佐太郎の歌碑もありました。

 

(當麻寺/中之坊/佐藤佐太郎の歌碑)

 

 歌碑は読みにくいですが、隣に同じ歌が記された板も立っていました。

 

 

(當麻寺/中之坊)

 

 【白藤の 花に群がる 蜂の音 歩みさかりて その音はなし

  by 佐藤佐太郎

 

 佐藤佐太郎は、斎藤茂吉に師事した歌人です。

 

 この他、松尾芭蕉宇都野研阿波野青畝など、中之坊を訪れたことのある俳人、歌人の句碑、歌碑などもあったのですが、写真を撮りそびれてしまいました。

 

 中之坊では、中将姫剃髪堂に安置されている導き観音御朱印をいただくことができます。

 

 

(當麻寺/中之坊・御朱印)

 

◇鬼の寺

 

 前回、當麻寺に伝わる中将姫伝説のあらすじをお話ししましたが、中将姫の父の藤原豊成は実在の人物で、子院の中之坊には、中将姫剃髪堂もあります。

 しかし、藤原豊成の娘に、中将姫又はそのモデルとなる人物が実在したことは、確認されていません。

 

 確かに、當麻寺の創建に関する正確な記録はなく、鎌倉時代に記された『建久御巡礼記』が、當麻寺の縁起を記した最初の文書とされていますが、その『建久御巡礼記』には、蓮糸曼荼羅は、横佩大納言(よこはぎのだいなごん)のが浄土に往生することを祈り、この願により化人が一晩で織り上げたとされています。

 

 これについて、『古代史謎解き紀行Ⅰ~封印されたヤマト編』(新潮文庫)で、著者の関裕二氏は、「娘が中将姫であるとは記されていないし、父親の正体が定かではない。つまり、中将姫伝承の原型には、「藤原」がからんでいなかったようなのだ。しかし、時代が下るにしたがって、藤原豊成の娘の中将姫へと変化している。」と述べています。

 

 この点、藤原豊成は、「横佩大臣」とも呼ばれていたので、「大納言」か「大臣」かの違いはありますが、「横佩大納言」=藤原豊成ではないとまで断言はできないような気はしますが、その藤原豊成の娘に中将姫(または中将姫のモデルとなる人物)がいなかったので、中将姫伝説は、後世の創作だと考えられるようになったのは事実です。

 

 そこで、関裕二氏は、『古代史謎解き紀行Ⅰ~封印されたヤマト編』(新潮文庫)において、『中将姫が実在しないとしても、それならばなぜ、「鬼の寺=當麻寺」で、藤原の女人が「聖」のイメージで語り継がれたのだろう。』と問題提起し、同書で謎解きを展開しています。

 その具体的な謎解きは、関裕二氏の著書を読んでいただければと思いますが、関裕二氏の「鬼の寺=當麻寺」との指摘について、少し掘り下げてみたいと思います。

 

 當麻寺は、前回お話ししたように、当麻氏の氏寺となりますが、当麻氏用明天皇の末裔です。

 そして、用明天皇の母は、蘇我稲目の娘で、かつ、蘇我馬子の姉である蘇我堅塩媛なので、用明天皇は、蘇我系の天皇ということになります。

 『日本書紀』には、笠をかぶったが、斉明天皇の葬儀を山から見ていたと記されており、人々は、そのは、乙巳の変(いっしのへん)で中大兄皇子中臣鎌足によって暗殺された蘇我入鹿だと噂し合ったと『日本書紀』は記しています。

 

 また、修験道の開祖とされる役行者役小角)は、大和国葛城上郡茅原郷出身で、最初の修行地が當麻でした。そして、この当時、二上山の東麓は、役行者の私領であったことから、その寄進を受けて、當麻国見が河内の万法蔵院を二上山の東麓に移したのですが、この役行者には、前鬼・後鬼という夫婦の鬼神が従者として仕えていたと伝わります。

 

 つまり、葛城、當麻の地は、と接点のある地であることから、関裕二氏は、當麻寺=鬼の寺であると指摘しているのです。

 

 この「」について、大和岩雄氏は、『鬼と天皇』(白水社)の中で、次のように指摘しています。

 

~飛騨の山人は怪人・鬼とみなされ、皇命に従っていない。こうした山人が、時代が下がるにつれて、皇命に従って内裏の大工にもなるが、京に出て来て河原者・非人にもなっている。山から山へと漂泊する木地屋だけでなく、河原に住む人々も被差別者であった。鬼が山から川へ降りて来て、そのすみかは、大江山のような山と、橋の下になったのである。~

 (『鬼と天皇』(白水社/大和岩雄著)より引用)

 

 この「」について、関裕二氏は、『もうひとつの日本史~闇の修験道』(ワニ文庫)の中で、この大和岩雄氏の指摘を踏まえて、さらに次のように述べています。

 

~『日本書紀』は、単に山から出てきた者だけを鬼としているのではない。天皇家の祖神(皇祖神)の敵や、その後の歴史時代に天皇家に歯向かった者を、みな鬼とみなしている。

 最もわかりやすい例は、出雲神である。皇祖神・天照大神の弟・素戔嗚尊(すさのおのみこと)は乱暴者で、高天原から追放され、地上界で土着の国津神の娘を娶って、出雲を建国する。ところが、高天原のアマテラスは、子や孫を地上界の支配者にしようとし、出雲に国譲りを強要したのだった。この時、地上界には「邪しき神」がいたといい、この者たちは、「邪しき鬼」(あしきもの)である、としている。~

 (『もうひとつの日本史~闇の修験道』(ワニ文庫/関裕二著)より引用)

 

 なお、ここで、「」を「もの」と読んでいますが、もののけ(物の怪)という言葉があるように、「もの」は、死霊、怨霊、妖怪などを指すことから、「」と「」は同義だと考えられていました。

 他方、「」は、「かみ」とも読まれており、「」と「」も、古来は同義であったとされています。

 

 そして、関裕二氏は、物部氏も、「」の字が入っており、「」とかかわりがあると指摘しています。

 蘇我氏も、前述のように、乙巳の変で暗殺された蘇我入鹿が、になって現れたと、『日本書紀』が記しています。

 

 そうすると、出雲蘇我氏物部氏などは、全てとかかわりがあることになるのですが、その他の鬼とされている者たちも含め、鬼に共通しているのは、朝廷に敗れ去った者たちであるということです。

 

 

  次に、役行者について、『続日本紀』には、次のような記述があります。

 

 「初め小角、葛木山に住みて、呪術を以て称めらる。」

 

 呪術を用いる小角役行者)は、葛木山(葛城山)に住んでいて、朝廷から称賛されていたというわけです。

 しかし、『続日本紀』では、文武天皇3年(699年)5月の条において、役行者が伊豆に流されたと記しています。

 

 その後、修験道は、反骨の宗教となっていき、修験者は、時の政権から追い落とされた者たちに与していきます。

 

 明治維新の際、明治新政府が神仏分離令を発しました。

 これは、国家神道の確立のためではなく、主眼は、神仏習合の宗教である修験道を潰し、修験者たちが旧幕府軍など、明治新政府に叛逆する可能性のある勢力に与することを阻止することにあったともいわれています。

 

 このような修験道について、関裕二氏は、『もうひとつの日本史~闇の修験道』(ワニ文庫)の中で、出雲と修験道のつながりを示しながら、次のように述べています。

 

~出雲と修験道のかすかなつながりにあえて注目したのは、弱者に優しいという修験道の属性に興味を覚えるからなのだ。

 「出雲」は単純な神話ではない。「出雲」は敗れ去った者どもであり、このことは、鬼とかかわりを持つ「蘇我」や「物部」と共通する。つまり、歴史の敗者と修験道が、ここでつながってくるのである。~

 (『もうひとつの日本史~闇の修験道』(ワニ文庫/関裕二著)p55より引用)

 


 ここで、當麻寺公式ホームページに記載されている當麻寺の由緒を見ると、次のような記載があります。

 

役行者さまの法力によって百済から四天王が飛来し、葛城山から一言主明神が現れ、熊野から権現さまとして竜神が出現しました。その時に行者さまが座った石は「影向石」として金堂の前に、熊野権現の出現した「竜神社」は中之坊に、今も残されています。~

 (當麻寺公式ホームページの「ご由緒」より引用)

 

 ここにおける葛城山の一言主明神は、記紀にも登場します。

 

 『古事記』では、「雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見つけた。雄略天皇が名を問うと『吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり』と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った」と記されています。

 

 葛城山には、現在も一言主神社が鎮座していますが、この一言主神(ひとことぬしのかみ)は、名前の類似性から、事代主神(ことしろぬしのかみ)と同一神だとの説があります。

 

 古代の出雲王朝東王家である富家(とびけ。向家。)が口伝で伝える歴史(通称「出雲口伝」)では、古代出雲王家は、東王家と西王家があり、主王副王を、両王家が交代で務めたと伝えられています。

 そして、主王の職名が大名持(おおなもち)で、副王の職名が少名彦(すくなひこ)とされており、第8代副王(少名彦)が、事代主であったと伝えられています。

 

 ただし、出雲口伝によると、「事代主」は当て字で、本来は、言葉により知ろしめ、統治する者という意味で、「言治主」(ことしろぬし)という名であったと伝えています。

 

 そして、出雲口伝では、古代出雲王朝の西王家出身の第8代主王である八千矛大国主)の子の味鋤高彦(あじすきたかひこ)が出雲の人々を引き連れて移住した地が葛城の南部とされ、味鋤高彦は、高鴨家と名乗ったと伝えられています。

 この高鴨家が移住した葛城の地は、高尾張邑(たかおわりむら)と呼ばれていたので、高鴨家は、後に尾張家とも称するようになりました。

 「」は「」の音変化で、と同義とされており、賀茂氏も同族です。

 

 ここで、『日本霊異記』の記述を見てみると、なんと、役行者は、加茂役公(かものえのきみ。高加茂朝臣)の出身と記されているのです。

 

 関裕二氏は、役行者自身が、出雲とかかわりがあることについては指摘していないのですが、『日本霊異記』の記述が事実であると仮定して、出雲口伝を基に考察すれば、役行者は、高鴨家高加茂家)出身で、古代出雲王朝の西王家出身ということになります。

 

 ちなみに、この葛城の中部には、出雲王朝の東王家出身の第8代副王である事代主の子の奇日方(くしひかた)も、母の活玉依姫の実家である摂津の人々や出雲族を引き連れて、移住してきます。

 この奇日方が、父である事代主を祀って建てたのが、一言主神社だそうです。

 

 よって、出雲口伝でも、一言主=事代主であることになります。

 

 ここで、葛城出雲役行者修験道が一本の線でつながったわけです。

 

 そして、関裕二氏がとかかわりがあると指摘している物部氏蘇我氏ですが、物部氏は、出雲口伝によれば、徐福が日本で名乗った二つ目の名である饒速日(にぎはやひ)が、出雲王家の分家である宗像家の姫である市杵島姫(いちきしまひめ)との間に産んだ彦火火出見(ひこほほでみ)の子孫である宇摩志麻遅(うましまじ)を祖とする氏族です。

 

 また、詳細は別の機会に譲りますが、出雲口伝によると、蘇我氏も出雲とつながりのある氏族とされています。

 これらの
出雲物部氏蘇我氏は、いずれも時の政権に敗れ去り零落していき、と呼ばれるようになっていきます。

 

 

 前回の奈良旅行と、今回の奈良旅行は、いずれも、聖徳太子蘇我氏物部氏、初代神武天皇、第15代応神天皇神功皇后などの足跡を辿ることが目的でした。

 

 そのため、當麻寺を訪れた前日に、敢えて中大兄皇子中臣鎌足蘇我入鹿暗殺の計画を密談した地に建つ中臣鎌足を祀る談山神社を訪れた以外は、ほぼ、聖徳太子蘇我氏物部氏、初代神武天皇、第15代応神天皇神功皇后に所縁のある地ばかりを選んでいたのですが、當麻寺は、藤原豊成の娘と伝わる中将姫所縁の寺なので、そこだけ見れば、藤原氏所縁の寺ということになりそうです。

 

 しかし、前述のように、関裕二氏が『古代史謎解き紀行Ⅰ~封印されたヤマト編』(新潮文庫)において、『中将姫が実在しないとしても、それならばなぜ、「鬼の寺=當麻寺」で、藤原の女人が「」のイメージで語り継がれたのだろう。』と問題提起して謎解きをしていく中で、當麻寺は、むしろ、私が足跡を辿りたい人たちに所縁のある寺の可能性があると直感的に思い、今回、訪れることにしました。

 

 そして、當麻寺の創建の伝承なども読み解いていったところ、當麻寺が現在の地に移るときに私領を寄進したと伝わる役行者が、出雲王家の血筋の可能性があることが判明し、驚きを禁じえませんでした。

 

 その意味で、今回、このタイミングで當麻寺を訪れることができたのは、大きな収穫でした。

 

 ちなみに、この後、大神神社を訪れて御神体である三輪山に登る予定でしたので、當麻寺奥院は参拝せずに、先を急ぐことにしたので、當麻寺は、またゆっくり参拝したいところです。

 

◇次回予告

 

 當麻寺を後にした私は、レンタカーで大神神社に向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。

 

 

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