平成30年(1018年)9月15日(土)から9月17日(月・祝)の敬老の日連休に、蘇我氏物部氏聖徳太子、初代神武天皇、第15代応神天皇の母の神功皇后の足跡を辿るため奈良を訪れたところ、非常に実り多き旅になったのですが、まだ回り切れなかったところもあったので、平成31年(2019年)4月28日(日)、29日(昭和の日)、30日(国民の休日)の3連休で、再び奈良を訪れました。

 

◇元興寺

 

 平成31年(2019年)4月28日(日)、新幹線、JR奈良線を乗り継いで、11時過ぎにJR奈良駅に着いた私は、ホテルに荷物を預け、歩いて奈良市中院町にある元興寺に向かいました。

 

 前回の奈良旅行で、奈良県高市郡明日香村飛鳥にある飛鳥寺を訪れたのですが、この飛鳥寺が、今回訪れた元興寺前身です。

 

 『婆娑羅日記Vol.47~奈良旅行記in2018⑪(飛鳥寺)』でもお話ししましたが、飛鳥寺の創建は、用明天皇2年(587年)、仏教導入を巡り、崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)と、排仏派の物部守屋(もののべのもりや)が対立し、戦となった時に遡ります。

 蘇我氏物部氏の精強な軍勢に苦戦する中、蘇我馬子の軍勢に加わっていた聖徳太子は、白膠の木で四天王の像を作って戦勝を祈願し、戦に勝利した暁には仏塔を造り仏法の弘通に努めると誓いました。

 
物部守屋に勝利した後、聖徳太子が創建したとされているのが、大阪市天王寺区にある四天王寺ですが、『日本書紀』には、この聖徳太子の話と並んで、蘇我馬子も、聖徳太子と同じような請願をしたと記されています。
 その請願が成就し、
物部守屋に勝利した蘇我馬子が、用明天皇2年(587年)に建立を発願し、創建したのが、飛鳥寺です。

 

 この飛鳥寺は、本格的な伽藍を備えた日本最古の仏教寺院だったのですが、それを示すように、飛鳥寺の元々の寺号は、法興寺といいます。法興寺とは、仏法が興隆する寺を意味します。

 

 蘇我氏の氏寺であった飛鳥寺は、乙巳の変(いっしのへん)において、中大兄皇子及び中臣鎌足らによって、蘇我入鹿が暗殺され、蘇我本宗家が滅亡した後、第40代天武天皇の時代に、官寺と同等に扱うようにという勅が出され、朝廷の管理下に置かれました。
 そして第42代
文武天皇の時代には、大官大寺大安寺)、川原寺薬師寺と並ぶ四大寺の1つに数えられ、朝廷の保護を受けるようになりました。

 しかし、その後、
飛鳥寺に大きな転機が訪れます。

 和銅3年(710年)に、
藤原京(『日本書紀』では、「新益京」と表記。)から平城京に遷都されました。
 
飛鳥寺から藤原京は、4km弱の近距離にありますが、平城京は、飛鳥寺から30kmも離れています。

 そのため、
藤原京にあった多くの寺が、平城京に移されることになりました。

 『
続日本紀』には、飛鳥寺も、養老2年(718年)に平城京に移ったとする記事があるのですが、他方、貞観4年(862年)の太政官符には、「平城遷都が行われたとき、諸寺は移ったが、ひとり法興寺だけが元の場所にとどまった」と記されています。ここにおける法興寺は、飛鳥寺の寺号です。ちなみに、飛鳥寺の寺号は、法興寺の他、元興寺飛鳥寺の寺号とされています。

 平城京遷都に伴い、
飛鳥寺以外の寺は、廃寺にして、平城京に完全に引っ越したのですが、飛鳥寺はなぜか、平城京にも寺を建立しつつ、飛鳥の地の飛鳥寺はそのまま残したわけです。

 そのため、平城京に建立された寺が、「
元興寺」(又は新元興寺)と呼ばれるようになったのですが、元興寺という寺号も有していた飛鳥寺本元興寺とも呼ばれるようになりました。

 飛鳥寺以外の寺は、平城京遷都に伴い、廃寺にして平城京に移転したので、移転先で同じ寺号を名乗ったのですが、飛鳥の元興寺平城(なら)の元興寺が併存することになったので、飛鳥の元興寺を「本元興寺」と呼び、平城(なら)の元興寺と区別されるようになったわけです。
 なお、「
元興」も、「法興」と同じで、「仏法が興隆する」という意味です。

 

 平城京遷都に伴い、飛鳥の元興寺飛鳥寺)以外の寺が廃寺にして平城京に移転したのに、「ひとり法興寺(元興寺)だけが元の場所にとどまった」理由として、私が愛読する歴史作家の関裕二氏は、『蘇我氏の正体』(新潮文庫)の中で、平城京遷都を計画実行したのが、藤原不比等、つまり乙巳の変蘇我入鹿を暗殺した首謀者の一人である中臣鎌足の子であったことから、飛鳥寺の僧の中には、藤原氏の都ともいえる平城京に移ることに強い抵抗を持つ者もいたと考えられると述べています。

 

 前回の奈良旅行で蘇我氏の足跡を辿るため、飛鳥寺を訪れたのですが、平城(なら)の元興寺も、当然蘇我氏と所縁のある寺になるものの、前回、時間の関係で訪れることができなかったので、今回、訪れることにしました。

 

 

 拝観受付で拝観料を納め、東門から境内へと入りました。

 

(元興寺/東門)

 

 この東門は、元興寺の正門に当たりますが、応永年間(1394年~1428年)に、東大寺西南院四脚門を移築したものだと記録にあるそうです。

 

 東門を抜けると、正面に極楽坊本堂があります。

 

(元興寺/極楽坊本堂)

 

 極楽坊本堂は、寛元2年(1244年)に、旧僧房の東端を改造して作られたものですが、明治以降に荒れ果て、昭和25年(1950年)頃まで、床が落ち、屋根が破れ、「化け物が出る」とまで言われていたそうです。

 しかし、昭和18年(1943年)に住職となった辻村泰圓の尽力により、境内の整備や建物の修理が進められました。

 現在、この極楽坊本坊は、国宝に指定されています。

 

(元興寺/極楽坊本堂)

 

 極楽坊本堂の南側には、法輪館があり、この時期は、『元興寺地蔵会 行燈絵名品展』が催されていました。

 

 

(元興寺/法輪館)

 

 地蔵会は、地蔵菩薩の縁日にあわせ、毎年8月23日と24日の二日間催される法会で、約150点の行燈絵が23日から約1週間、本堂に飾られるそうです。

 元興寺の境内の整備、建物の修理に尽力した辻村泰圓が、昭和23年(1948年)に地蔵会を復興し、辻村泰圓と共に、当時東大寺別当(住職)であった上司海雲、評論家の亀井勝一郎らが呼びかけ人となり、昭和31年(1956年)から、他のお寺の住職や画家、作家など、様々な分野の著名人が行燈絵を寄贈するようになり、それ以降、毎年新しい作品が寄贈されているそうで、今回の特別展『元興寺地蔵会 行燈絵名品展』は、元興寺が所蔵しているそれらの行燈絵の中から、選りすぐりのものを展示していました。

 

 法輪館に入るときにいただいたパンフレットに、今回展示されている行燈絵の寄贈者の名前が列挙されていたのですが、永六輔(放送作家・作詞家)、福田恆存(評論家)、海音寺潮五郎(小説家)、三波春夫(浪曲師・歌手)、近衛秀麿(指揮者・作曲家)、十三代目片岡仁左衛門(歌舞伎役者)、緒形拳(俳優)、八代目坂東三津五郎(歌舞伎役者)、棟方志功(板画家)と、錚々たる著名人が名を連ねていました。

 

 そのため、じっくり見学したいところでしたが、この後、18時に店を予約していて、それまでに、奈良国立博物館の『なら仏像館』の仏像と、奈良国立博物館の特別展『藤田美術館展』で展示されている曜変天目茶碗をじっくり見学したかったので、駆け足で鑑賞して、法輪館を後にしました。

 

 法輪館の前に、浮図田(ふとでん)がありました。

 

 

(元興寺/浮図田)

 

 浮図田の説明板によると、石塔、石仏類を総称して、浮図というそうですが、寺内や周辺地域から集めた2500基余の石塔、石仏類を、田圃の稲のように整備したのが、浮図田とのことです。

 

(元興寺/浮図田説明板)

 

 石塔や石仏類は、鎌倉時代末期から江戸時代中期のものが多いようで、元興寺興福寺大乗院関係の人々、近在の人達が、浄土往生を願って、滅罪積得作善のために極楽坊の周辺に供養仏塔として造立したものだそうです。

 

 浮図田は、法輪館の前から、その西にある小子房の前まで、綺麗に並んでいました。

 

 

(元興寺/小子房)

 

  小子房の説明板によると、奈良時代の東室南階大坊には、北側に梁間の狭い小子坊が付随していましたが、僧坊が中世に書院化すると、小子坊北の厨房となったそうです。

 

(元興寺/小子房説明板)

 

 小子房の近くに、「百済(ペクチェ)葺き 眼下の浮図(プト)田 桔梗(トラジ)咲け」と書かれた立札があり、その下に、「日本最古の瓦」と書かれていました。

 

(元興寺/日本最古の瓦)

 

 平城(なら)の元興寺の前身である飛鳥の元興寺飛鳥寺)を蘇我馬子が創建した際、百済の国王が、日本最初の仏寺建立を支援するため、仏舎利を献じ、さらに寺工鑪盤博士瓦博士画工を派遣しました。

 元興寺の公式ホームページによると、その時に派遣された瓦博士が作った日本最初の瓦が、平城京遷都に伴い、平城(なら)の元興寺が建立された際に飛鳥の元興寺飛鳥寺)から運び移されて、本堂や、禅室の屋根に使われたそうです。

 重なりあった丸瓦の葺き方は、行基葺きというそうです。

 

 この瓦が百済から派遣された瓦博士によって作られたものだったので、「百済(ペクチェ)葺き」と立札に書かれていたわけです。

 

 ちなみに、百済は、韓国語では「ペクチェ」と読みますが、日本語では、「くだら」と読みます。ただ、なぜ「百済」を「くだら」と読むのか、諸説有り、「ひゃくさい」という音読みも併記されることが有ります。

 日本国語大辞典では、『馬韓地方に原名「居陀羅」と推定される「居陀」という地名があり、これがこの地方の代表地名となり、百済成立後、百済の訓みになったという説が最も合理的か。』と説明されており、これが有力説のようです。

 

 小子房の北側(極楽坊本堂の西側)には、禅室があります。

 

 

(元興寺/極楽坊禅室)

 

 説明板によると、禅室は、元興寺東室南階大坊の四房分が残った僧房で、念仏道場として著名であったそうです。

 

(元興寺/極楽坊禅室説明板)

 

 鎌倉時代に改築されたので、大仏様式の手法を軒廻りに残しているそうですが、主要な構造部材や礎石は奈良時代の創建当初のものが残り、今もそれが用いられているそうです。

 ただし、前述のように、明治時代以降荒れ果ててしまい、昭和18年(1943年)に住職となった辻村泰圓の尽力によって、修理がされ、現在に至っています。

 この禅室にも、日本最古の瓦が使われています。

 

 禅室は、現在、国宝に指定されています。

 

 元興寺の拝観を終えた私は、拝観受付で、受付の時に預けていた御朱印帳を受け取りました。

 

(元興寺/御朱印)

 

 元興寺には、複数の御朱印があるのですが、今回は通常御朱印のうち、御本尊の智光曼荼羅御朱印をいただきました。

 

 

 

 ところで、元興寺鐘楼には、悪霊の変化であるが出て、都の人々を怖がらせていたところ尾張国から雷の申し子である大力の童子が入寺し、この鬼の毛髪を剥ぎ取って退治したという伝説が伝えられています。

 この邪悪な鬼を退治する神格化して、八雷神元興神と呼ばれるようになったのですが、これらは、「ガゴゼ」、「ガゴジ」などの音で伝わりました。

 「ガゴジ」とは「元興寺」のことなので、元興寺という寺の固有名詞が、鬼を退治した雷の申し子の名として広まったわけです。

 

 しかも、なぜか、その雷の申し子の姿も、鬼の姿で表現されるようになりました。

 

 つまり、邪悪な鬼を、雷の申し子である鬼が退治したわけです。

 

 これは不思議なように思えるのですが、実は日本では古来、は同一、或いは表裏一体と考えられていました。

 実際、は、「かみ」とも読みます。

 

 この「ガゴジ」と呼ばれた鬼=神の伝説を紐解いていくと、古代史の真相の一端を垣間見ることができると思うのですが、その考察は、またの機会にさせていただければと思います。

 

◇旬菜香音

 

 元興寺の参拝を終えた私は、ならまち通りを北上して、奈良国立博物館に向かったのですが、猿沢池に行く途中に、美味しそうなランチメニューの看板の出ている良さげな店があったので覗いたところ、運良くカウンター席が1席空いていたので、その『旬菜香音』に入り、昼食をとることにしました。

 

 ランチメニューで、松花堂弁当が一番人気のようでしたが、私は、せっかくなので、『特選黒毛和牛 奈良大和牛ひとくちステーキ定食』と、生ビールを注文しました。

 

(旬菜香音)

 

 旅先で昼から飲むビールは最高です。

 

 そして大和牛ですが、私の好きなレア気味の焼き加減で、さっぱりした和風のソースがとても合い、美味しかったです。

 

◇次回予告

 

 食事を終えた私は、猿沢池を脇を抜けて、奈良国立博物館の『なら仏像館』に向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。 

 

 

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