平成31年(2019年)4月20日(土)、千葉県木更津市矢那にある坂東三十三観音第30番札所高蔵寺の参拝を終えた私とK井さんは、ロードバイクで千葉県長生郡長南町笠森にある㉛笠森寺に向かいました。

 

◇笠森寺

 

 ㉚高蔵寺を後にした私たちは、千葉県道33号を北東に向かって走り、小櫃川を渡って房総横断道路に入り、ひたすら東に向かって走りました。

 この房総横断道路は、木更津市から外房の長生郡一宮町東浪見まで、房総半島を横断する道路なのですが、房総半島の真ん中には、ゴルフ場などが点在する小高い丘があるので、途中、地味なアップダウンが続きます。

 民家も商店もほとんどないエリアも多く、ただ黙々とロードバイクを漕ぎ続け、㉚高蔵寺から2時間ほど走り、千葉県市原市奥野の集落を抜けた先の小さなトンネルを超え、少し下った左手に、㉛笠森寺の入口がありました。

 

 そこから少し入ったところにある㉛笠森寺の駐車場にロードバイクを駐輪させていただき、そこから、参道の女坂の階段を登って行った先に、三本杉と、子授楠が立っていました(子授楠の方は、残念ながら、写真を撮りそびれてしました。)。

 

 

(㉛笠森寺/三本杉)

 

 この三本杉子授楠のすぐ先に、㉛笠森寺二天門がありました。 

 ちなみに、女坂よりも急な男坂は、この二天門の前で合流するのですが、その男坂の途中に、松尾芭蕉㉛笠森寺観音堂について詠んだと言われる句を刻んだ芭蕉翁句碑があるようですが、今回は男坂の方は通りませんでした。

 

 

(㉛笠森寺/二天門)

 

 ㉛笠森寺は、山号を大悲山といい、坂東三十三観音の第31番札所となっていて、通称笠森観音とも呼ばれています(笠森寺の頭に冠している㉛の数字は、いつもと同様、札所の番号を示しています。)。

 

 ㉛笠森寺の公式ホームページには、開創について、次のように記しています。

 

~ 五十代桓武天皇の延歴三年(七八四)、伝教大師が東国を行脚したおり、たまたま尾野上の山に至ると、山の頂に金色の光がキラキラ照りかがやくのをみた。「さて不思議なことよ」と光のあとをたずねてゆくと、平を摩するようにクスの大木がそびえていた。そして、その根かたのうつろに、小さな十一面観音像がはめ込まれていた。大師は、ただならぬ法の道にみちびかれ、この地に草庵を結び、このクスの木をもって、約二.二メートル(七尺八寸)の十一面観音像を刻み、庵のほとりに安置したのである。~

 (㉛笠森寺の公式ホームページより引用)

 

 

 二天門を潜ると、目の前に大きな観音堂が聳えていました。

 

(㉛笠森寺/観音堂)

 

 観音堂は、長元元年(1028年)に、後一条天皇の勅命によって建立されたもので、飛騨の一条康頼(いちじょうやすより)と堀川友成の二人の棟梁によって建てられたと伝えられています。

 観音堂のこの様式は、『坂東巡礼~三十三観音と心の法話』(坂東札所霊場会監修)によると、四方懸造(しほうかけづくり)という様式で、大きな岩丘の周囲に61本の巨大な柱を立てて、その上に舞台を造り、伽藍を設けたものだそうです。

 当初の観音堂は兵火で焼失してしまいましたが、現在のものは、文禄年間(1592年から1595年)に再建されたものだと推定されています。

 この四方懸造の観音堂は、日本で現存する唯一のものだそうです。

 

 私達も早速、観音堂の急な階段を登り、拝観させていただきました。

 

(㉛笠森寺/観音堂からの眺望)

 

 観音堂に登ってみると、けっこうな高さで、高いところが苦手な私は、足が竦みました。

 

(㉛笠森寺/観音堂からの眺望)


 観音堂で納経を終えた私達は、観音堂内の納経所で御朱印をいただきました。

 

 

(㉛笠森寺/御朱印)

 

 納経帳に記された㉛笠森寺御詠歌は、次の歌です。

 

日は暮るゝ 雨はふる野の 道すがら かゝる旅路に たのむかさもり

 

 

 ところで、この㉛笠森寺の寺名の由来について、『坂東巡礼~三十三観音と心の法話』(坂東札所霊場会監修)には、次のような伝説が記されています。

 

~箕づくりの家に生まれた娘は、容顔美麗で心が優しく、幼い頃から尾野上の観音に深く帰依した。そんなある日、上総国で田植え祭が開催されることになり、早乙女が集められることになった。地頭から選ばれて参加することになった娘は、祭の日、大雨が降りしきるなか会場に向かうが、観音山を通りかかると破れた仮屋の中で仏像が濡れているではないか。娘は気の毒に思い、自分が身に付けていた笠を着せ、道を急いだ。不思議に雨にも濡れず、しかも予定にも間に合ったという。一方、都では朱雀帝の妃が若くして病没し、帝もその周囲も愁傷に沈んでいた。田植えを主催した国司は京で生前の妃と顔を合わせたことがあり、早乙女の中に妃に似た美しい娘を見つける。それが箕づくりの娘であった。国司は、ぜひ帝に面会させたいと思い、その年の夏、娘とともに都に登り、拝謁。娘は帝の叡慮に叶って宮廷に上がることになった。さらに帝の深い寵愛を受けるに至り、やがて后妃にまで登りつめたのである。后妃となった娘は、後年、自分が玉の輿に乗れたのは、故郷の観音のおかげだと感謝し、その報恩に報いるため、飛騨の棟梁に命じて伽藍を建てさせた。また、観音に「笠」を着せたことや、乙女時代の名が「於茂利(おもり)」だったので、寺名を“かさもり(笠森)”と名付けたと伝わる。~

 (『坂東巡礼~三十三観音と心の法話』(坂東札所霊場会監修)より引用)

 

 この伝説は、笠地蔵御伽噺と類似しているのですが、この笠地蔵の御伽噺やそれに類似する伝承は、地蔵信仰のない沖縄を除き、日本の各地で見られるもので、善行を施した無欲な者に幸運が訪れるという、致富譚の1つと言われています。

 そのため、子供たちに道徳を諭す寓話として、人口に膾炙され、広まったのだと思います。

 

 ただ、御伽噺の中には、それとは異なり、正史とされる政府の公式見解の歴史と異なる歴史を、御伽噺という体を装って後世に伝えているものもあるので、御伽噺の背景や、広まった経緯などを探っていくのも、非常に興味深いことだと思います。

 

◇次回予告

 ㉛笠森寺を後にした私達は、ロードバイクで千葉県いすみ市岬町鴨根にある㉜清水寺へと向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。

 

 

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