平成29年(2017年)11月18日(土)、備中松山城の見学を終えた私たちは、最上稲荷(さいじょういなり)として知られる妙教寺に向かったのですが、そのお話の前に、もう少し備中松山城のお話をしたいと思います。
◇板倉勝静・山田方谷
前回、備中松山藩藩主の水谷家(みずのやけ)が末期養子の禁に触れ、改易されて旗本3000石になり、赤穂藩家老であった大石良雄(大石内蔵助)が約1年半に亘って城番を務めた後、安藤重博が入城し、備中松山城藩主となったところまでお話ししましたが、安藤家も、備中松山藩(安藤家)第2代藩主安藤信友が美濃加納藩に転封になり、次に藩主となった石川総慶が伊勢亀山藩に転封となります。
その時に伊勢亀山藩から備中松山藩に転封になり、備中松山藩(板倉家)初代藩主となったのが、板倉勝澄で、その後、板倉家が明治維新まで備中松山藩の藩主を務めます。
時代は下り、備中松山藩(板倉家)第6代藩主板倉勝職(いたくらかつつね)のときに、勝職が奢侈を重ねたことも一因となり、藩財政が逼迫してしまいます。
そのような中、陸奥白河藩第4代藩主松平定永の八男として生まれ、板倉勝職の婿養子となり、備中松山藩(板倉家)第7代藩主となったのが、板倉勝静(いたくらかつきよ)です。
板倉勝静は、陽明学者の山田方谷(やまだほうこく)を藩校有終館の学頭に就任させ、さらに藩政改革を指示しました。
山田氏は、清和源氏の流れをくむ武家でしたが、方谷の曾祖父が問題を起こし、備中松山藩外に出て、流浪の生活をしていましたが、後に許され、備中松山藩に戻り、百姓をして生計を立てていました。
御家再興を願う方谷の両親は、百姓の身でありながら、方谷を5歳から新見藩の松川松陰の下で学ばせ、方谷は才能を開花させていきます。
山田方谷は、佐久間象山(さくましょうざん)と議論し、何度も論破したことがあるほどの切れ者で、幕末の戊辰戦争において、越後長岡藩を率いて新政府軍と戦った越後長岡藩の家老河合継之助が山田方谷に学び、藩政改革の師と仰いだほどの人物です。
河合継之助の生涯を描いた司馬遼太郎の『峠』でも、河合継之助が若い頃に備中に遊学し、山田方谷に師事するシーンが描かれています。
山田方谷は、藩財政が逼迫していることを内外に公開し、債務の返済を50年延期し、煙草や茶などの専売制を導入するなどして藩財政を潤わせ、藩士以外の領民にも教育を施し、優秀な者は、藩士に取り立て、農兵制を導入して武士と農民の志願兵によるイギリス式の軍隊を整備するなど、多くの大胆な改革を実行し、藩政改革を成功させました。50年延期をさせた債務ですが、この藩政改革の成功により、結局数年後に完済しています。
この山田方谷の藩政改革によって、順風満帆に思えた備中松山藩ですが、風向きが変わり始めます。
山田方谷を起用して藩政改革を成功させた藩主板倉勝静は、幕府の寺社奉行の役に就きました。
板倉勝静は、前述のように、陸奥白河藩第4代藩主松平定永の八男として生まれ、備中松山藩(板倉家)第6代藩主板倉勝職の婿養子となったのですが、松平定永の父は、寛政の改革を指揮した老中松平定信で、松平定信は江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の孫にあたります。
また、板倉家の宗家の初代は、京都所司代を務めた板倉勝重で、家柄も血筋も名門と呼ぶに相応しいものでした。
板倉勝静は、寺社奉行就任後、安政の大獄において、首謀者の1、2名を処罰するにとどめ、寛大な措置を採るよう進言したことで大老井伊直弼(いいなおすけ)に疎んじられ、寺社奉行を罷免されていたところ、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、板倉勝静は寺社奉行に復帰しました。
そして、幕府が人材難であったこともあり、板倉勝静は老中に昇格。一時罷免されたものの、再び老中に復帰します。
第二次長州征伐では、強硬論と寛典論(穏当な処分で済ませようとする意見)が対立しており、板倉勝静は寛典論を支持しましたが、退けられました。
その後、第15代将軍徳川慶喜の下で、老中首座兼会計総裁に抜擢されます。
大政奉還後、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が始まると、藩主板倉勝静が幕府の老中首座兼会計総裁を務めていた備中松山藩は、なんと朝敵となり、鳥羽・伏見の戦いから1週間後、朝廷から備中松山藩追討令が出されます。
鳥羽・伏見の戦いの後、藩主板倉勝静は、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)、桑名藩主松平定敬らと共に開陽丸で徳川慶喜に従って江戸に向かいました。
新政府軍側についた岡山藩が錦の御旗を掲げて備中松山城に迫る中、藩主板倉勝静、嗣子の板倉万之進(後の板倉勝全)が江戸にいるため、山田方谷の英断で藩主を強制的に隠居させたことにして、前藩主板倉勝職の従弟の板倉勝弼を勝静の養子に迎え、藩主とし、新政府軍に降伏し、無血開城します。
備中松山城は、これにより、岡山藩に接収されました。
板倉勝静は、さらに旧幕府軍に身を投じて、元老中の小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となり、函館・五稜郭まで転戦します。
このとき、勝静に従った備中松山藩士も、新撰組副長土方歳三の指揮下で奮闘します。
山田方谷は、このままでは備中松山藩が重い処分を受けると考え、松山藩士を函館に派遣して、半ば強引に勝静を連れ戻し、投降させました。勝静は、終身禁固刑に処せられましたが、それにより、備中松山藩は2万石に減封の上、再興が認められ、備中松山城も、岡山藩から返却されます。
その後、伊予松山藩との混同を避けるため、備中松山藩は高梁藩(たかはしはん)と改名させられます。
備中松山城は、山田方谷の英断がなければ、岡山藩による猛攻を受けていたので、現存天守として残ることができたのは、山田方谷のおかげといっても過言ではないと思います。
童門冬二著の『山田方谷~河合継之助が学んだ藩政改革の師』(人物文庫)には、次のようなエピソードが記されています。
備中松山城のある高梁市には、JR伯備線の方谷駅という駅があります。
駅名を決める際、地元の人々は、「山田方谷」にちなんで「方谷駅」という駅名を強く推しましたが、鉄道当局は、人名を駅名にした例がないとの理由で、この辺りの地名である中井村から、「中井駅」でどうかと提案しました。
しかし、どうしても方谷の名にしたい地元の人々は、話し合い、「ここを流れる西方川の谷という意味だから、地名だ。」と鉄道当局を説得したそうです。
それを聞いた鉄道当局は苦笑しながらも、熱意に負けたのか、方谷駅という駅名に決定したそうです。
山田方谷は、それほど地元の人々に愛されているわけです。
ちなみに、勝海舟は、長崎海軍伝習所に入所し、初代海軍卿にもなっているので、海軍のイメージが強いように思いますが、実は江戸幕府の最後の陸軍総裁を務めています。
幕府の要職を罷免されていた勝海舟を呼び戻し、陸軍総裁に就任させたのは板倉勝静で、そのこともあって、板倉勝静と勝海舟は、身分の違いを越えた友人でした。
その勝海舟が、板倉勝静を「あのような時代でなければ、祖父の定信公以上の名君になれていたであろう。巡り会わせが不幸だったとしか言いようが無い。」と評していたそうです。
後の時代に名君と評される人は、強烈なリーダーシップを発揮する点はほぼ共通していると思うのですが、リーダーシップの使い方として、上意下達のタイプ、自らが先頭に立って範を示すタイプなど、様々いると思います。
板倉勝静は、旧体制派の反対を押し切って、百姓出身の山田方谷を抜擢し、山田方谷に全てを委ねたことで、藩政改革に成功した名君でした。
自分で担当者を指名しておきながら、器の小さいリーダーは、担当者を信頼できず、あれやこれやと口を出し、失敗したときは、担当者の責任にするということは、往々にしてあることです。
それに対し、板倉勝静は、自分が決めた担当者である山田方谷に絶大な信頼を置いて任せ、他方、旧体制派の抵抗は、自分の責任で納めたわけです。
これも、リーダーとしてあるべき姿だと思います。
ちなみに、板倉勝静の養父である板倉勝職は、城中の武家の礼式を管理する奏者番という幕府の要職に就いていましたが、前述のとおり、藩政においては奢侈を重ね、財政を逼迫させた張本人の一人でした。
藩政改革を成功させた米沢藩の上杉鷹山も、板倉勝静も、奇しくも婿養子として藩主となり、改革を成功させているのですが、このようなしがらみのないことが、思い切った政策を採れた理由の一つなのかもしれません。
◇妙教寺
備中松山城の見学を終えた後、T本君の運転で最上稲荷山妙教寺へと向かいました。
妙教寺は、最上稲荷(さいじょういなり)の名で知られ、伏見稲荷、豊川稲荷と並ぶ日本三大稲荷の1つだそうです。
岡山市高松地区にあるので、高松稲荷とも呼ばれています。
妙教寺の駐車場から仁王門を潜り、正面の本殿(霊光殿)に行かず、右手の門を潜りました。
(妙教寺)
この門の先に、根本大塔があります。
(妙教寺/根本大塔)
根本大塔は、明治14年(1881年)に再建されましたが、老朽化のため、平成18年(2006年)に移転の上、修復されました。
一塔両尊四士(いっとうりょうそんしし)や高祖日蓮聖人などを祀っています。
根本大塔は、供養・回向を行う場所で、春秋に彼岸会、御会式が行われます。
(妙教寺/大客殿と根本大塔)
根本大塔の左手にある大客殿の裏には、庭園があるのですが、今回は時間の関係で庭園の見学はせずに、本堂へと向かいました。
(妙教寺/本堂)
本堂(霊光堂)は、開山千二百年記念事業として、5年の歳月を経て昭和54年(1979年)に完成しました。
本堂では、祈祷が行われます。
妙教寺の縁起によると、天平勝宝4年(752年)、報恩大師に孝謙天皇の病気平癒の勅命が下り、龍王山中腹の八畳岩で祈願を行うと、白狐に乗った最上位経王大菩薩(稲荷大明神)が八畳岩に降臨したそうです。
報恩大師はその尊影を刻み、祈願を続けたところ、孝謙天皇は無事快癒されたそうです。
その後、延暦4年(785年)、桓武天皇が病気となった際も、報恩大師の祈願により快癒したことから、桓武天皇の命により、現在の地に竜王山神宮寺が建てられ、これが妙教寺の始まりだとされています。
本殿の御本尊は、八畳岩に降臨した最上位経王大菩薩(稲荷大明神)です。
ちなみに、羽柴秀吉の備中高松城攻めの際、戦火によってその堂宇は焼失してしまいますが、御本尊の最上位経王大菩薩の像は八畳岩に移され、難を逃れたそうです。
妙教寺は、元々天台宗でしたが、江戸時代初期に日円聖人によって再建された際に日蓮宗に改宗しました。
その後、宗教法人法の施行に伴い、昭和29年(1954年)に日蓮宗から独立しますが、平成21年(2009年)に、日蓮宗に復帰しています。
◇次回予告
妙教寺の参拝を終えた私たちは、この近くに備中高松城址があったので訪れたかったのですが、羽柴秀吉の水攻めによって切腹した城主清水宗治の自刃の地、清水宗治の胴塚、資料館などを見学していると、1時間ほどかかるとのことだったので、時間の関係で今回は断念し、今回岡山を訪れた目的の1つである吉備津彦神社へと向かいましたので、次回はそのお話からさせいただきます。
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