◇序章

 平成29年(2017年)11月17日(金)に、私が所属する第一東京弁護士会刑事法制委員会の委員で、尾道刑務支所に視察に行きました。

 

(尾道刑務支所)

 

 視察後、尾道の居酒屋「和房万作」で、懇親会を兼ねて、参加した委員で視察内容の検討会を開きました。委員会の視察はここで終了で、その後、私は、委員会の有志で二次会に行きました。

 

 検討会終了後は自由行動なので、尾道で一泊し、翌朝は、そのまま東京に帰る人もいれば、尾道や近くの街を観光して帰る人もいました。

 

 私は、せっかく尾道まで行くなら、広島県の大崎上島に住む大学時代の親友T本君と久々に会って飲みたいと思い、尾道刑務支所の視察が決まった時に、T本君に連絡をしました。

 

 T本君は、自宅のある大崎上島から自動車で来るので、そのまま車で観光できるところということで、今回は、二人で岡山観光をすることにしました。

 

◇備中松山城

 平成29年(2017年)11月18日(土)9時30分に、私が宿泊していた尾道第一ホテルまでT本君が自動車で迎えに来てくれ、そこから、備中松山城へと向かいました。

 

 備中松山城は、車両の乗入制限がされていない日は、8合目のふいご峠駐車場まで行って、そこから登城することができるのですが、この日は乗入制限がされている日だったので、5合目の城見橋公園駐車場に自動車を停め、そこから登城整理バスふいご峠駐車場まで行きました。搭乗整理バスの運行日(乗入制限の日)は、高梁市観光ガイドのホームページで発表されています。 

 

 ちなみに、5合目の城見橋公園駐車場から登城整理バスに乗らずに歩いて登ることも可能ですが、時間的に、予定しているスポットを周り切れなくなるので、今回は登城整理バスを利用することにしました。バスの料金は、往復で400円です。

 

 狭くて急なつづら折れの登り坂をバスで登ること、5分ほどで、ふいご峠駐車場に着きます。登山口には、登城者のために竹の杖が置かれていたので、私たちも杖をお借りして、登り始めました。

 

(備中松山城)

 

 途中で石の階段となり、登り口から5分ほど歩くと、中太鼓櫓跡が見えます。

 

(備中松山城/中太鼓櫓跡)

 

 中太鼓櫓跡からは、高梁市街が見渡せるのですが、この日は霧が出ていました。

 

(備中松山城)

 

 もしかしたら、天守から雲海が見える可能性もあると、少し期待が膨らみます。

 木々も色付き始めていて、とても趣きがあります。

 

(備中松山城)

 

 中太鼓櫓跡から5分ほどで、大手門跡に着きます。

 

(備中松山城/厩曲輪土塀)

 

 右手に見える土塀は、厩曲輪土塀(うまやくるわどべい)で、2ヶ所ある現存土塀のうちの1つです。この厩曲輪土塀の下の石垣は、天然の岩盤の上に築かれています。

 

 大手門跡を通り抜けると、右手に三ノ丸跡があり、正面に三の平櫓東土塀がありますが、これが、現存土塀のもう1つです。

 

(備中松山城/三の平櫓東土塀)

 

 突き当りを右に曲がり、歩いて行くと、二ノ丸跡があり、その先に本丸があります。

 

(備中松山城/本丸)

 

 左手に見える建物が本丸南御門(このさらに左側に六の平櫓があります。)、真ん中に見える建物が五の平櫓、右手奥に見えるのが、天守です。

 

 私たちは、本丸南御門を潜り、天守へと入りました。この天守は現存12天守のうちの1つです。

 

(備中松山城/天守)

 

 天守は、2層2階になっていて、1階には、装束の間と呼ばれる城主の部屋があり、2階には、神棚がありました。

 

(備中松山城/天守)

 

 神棚は、御社檀と呼ばれており、天和3年(1683年)に備中松山藩(水谷家)第2代藩主水谷勝宗(みずのやかつむね)が大改修したときに、備中松山藩の守護として、三振の宝剣に、水谷家の守護神である羽黒大権現など、10柱の神を勧請したものだそうです。

 

 天守の2階からは、五の平櫓二ノ丸跡が見え、その先に、高梁市街を望むことができました。

 

 

(備中松山城/天守)

 

 別の方角も眺めてみると、眼下にわずかに雲海のようなものが見えました。

 

(備中松山城/天守)

 

 雲海に囲まれた備中松山城を天守から一度は眺めてみたいものです。

 

 ちなみに、雲海に浮かぶ備中松山城の写真などを目にしたことがある人も多いと思いますが、その写真は、備中松山城のある山とは、峰続きではあるものの、別の山にある展望台から撮られたものです。雲海がなくても、絶景であることは間違いないのですが、城見橋公園駐車場から自動車で30分ほどかかるので、時間の関係で今回は断念しました。

 

 天守の見学を終えた私たちは、天守の北側にある二重櫓に向かいました。

 

(備中松山城)

 

 この二重櫓現存しているものです。

 

 さて、城の裏門を搦手門(かためてもん)といいますが、備中松山城の搦手門跡の先に、水手門跡があり、そこから30分ほど山道を歩くと、大松山城があります。

 今回見学した現存天守のある城域は、後述するように近世城郭部分で、小松山城とも呼ばれており、それに対し、中世城郭部分が、大松山城で、両方を併せて、備中松山城と呼ばれています。そのため、今回も大松山城まで行きたかったのですが、雨が降りそうだったこと、時間の関係で、今回は展望台と同じく断念しました。

 

◇備中松山城の歴史

 ◆秋庭重信

 

 ところで、備中松山城の歴史は、鎌倉時代の仁治元年(1240年)に、三浦氏の一族の秋庭重信(あきばしげのぶ)が、承久の乱の戦功によって、備中国有漢郷の地頭になり、臥牛山の現在の大松山城の地に城を築いたことに始まります。

 

 高橋宗康

 

 その後、元弘年間(1331年から1333年頃)に、備後の三好氏の一族である高橋宗康が入城し、小松山城の地に城を築き、元々、高橋だった地名を松山と改めます。

 

 三村元親

 

 戦国時代には、三村元親(みむらもとちか)が、毛利元清毛利元就の四男)の加勢を得て庄高資(しょうたかすけ)から備中松山城を奪還し、大松山城及び小松山城を要塞化しました。

 

 三村元親の父三村家親(みむらいえちか)は、宇喜多直家が放った刺客遠藤秀清遠藤俊通の兄弟によって暗殺されていたので、三村元親にとって宇喜多直家不倶戴天の敵だったのですが、毛利元就の跡を継いだ毛利輝元は、宇喜多直家と手を結んだため、三村元親織田信長と通じ、毛利家から離反します。

 しかし、毛利家の三村討伐軍の前に備中松山城陥落し、三村元親は毛利家に願い出て、辞世の句を数首詠み、切腹しました。

 

 小堀政一

 

 これにより、備中松山城は毛利家の支配下となりますが、関ヶ原の戦い毛利輝元が西軍の総大将となり、敗北したことで、毛利家の領地は周防・長門に減封され、天領(江戸幕府の直轄地)となり、備中国代官として、小堀政次備中松山城に入城します。

 そして、跡を継いだ小堀政一が、備中松山城を修築をしました。この頃に麓に御根小屋も作られたと考えられています。

 

 ちなみに、この小堀政一は、慶長13年(1608年)に駿府城普請奉行となり、修築の功により、翌年に従五位下遠江守に叙任されました。それ以降、この官名から小堀政一小堀遠州と呼ばれるようになります。

 

 小堀遠州備中松山城の修築、駿府城の修築だけでなく、名古屋城天守後陽成院御所の造営などでも作事奉行を務めており、建築作庭にも才能を発揮しました。

 また、千利休古田織部(ふるたおりべ)に師事し、茶道の本流を継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となりました。小堀遠州は、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を作り上げ、その流派は遠州流として現在まで引き継がれています。

 

 ◆水谷勝宗

 

 元和3年(1617年)、因幡鳥取藩(6万石)の第2代藩主池田長幸(いけだながよし)が備中松山城に入城し、備中松山藩6万3000石を立藩し、備中松山藩(池田家)初代藩主となりますが、第2代藩主池田長常に嗣子がないまま亡くなったため、池田家は廃絶となり、水谷勝隆(みずのやかつたか)が入封し、備中松山藩(水谷家)初代藩主となりました。

 

 備中松山藩(水谷家)第2代藩主水谷勝宗が、備中松山城の大修築を行い、備中松山城は現在の姿となりました。

 

 しかし、第3代藩主水谷勝美に嗣子がいなかったため、死の直前に水谷勝晴末期養子としましたが、水谷勝晴も、1ヶ月後に13歳の若さで早世してしまい、第3代藩主水谷勝美の弟の水谷勝時を藩主に立てましたが、幕府に受け入れられず、水谷家は、旗本3000石に減封され、城持ち大名の座から降格されました。

 

 江戸幕府は、死に瀕してから慌てて跡継ぎとして養子をとる末期養子禁止しており、それにより、多くの大名家が断絶し、その家臣が浪人となったため、後に要件を緩和し、さらに、例えば藩主の死亡日を遅らせて幕府に報告し、末期養子の禁を免れようとするケースなどにおいて、幕府がそれを知りながら黙認したり、場合によっては、幕府の指示によって末期養子の禁を潜脱する方策がとられるようなケースもありました。

 

 ただ、水谷家の場合、水谷勝晴自体が末期養子で、水谷勝時は、さらにその末期養子となったため、さすがに受け入れられませんでした。

 

 浅野長矩浅野内匠頭)、大石良雄大石内蔵助

 

 この時、城の受け渡しに任じられたのが、忠臣蔵で有名な赤穂事件のきっかけとなった刃傷事件を起こした播州赤穂藩第3代藩主浅野長矩(あさのながのり。浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の名で知られる。)でした。

 

 浅野長矩は、忠臣蔵赤穂浪士四十七士を率いた大石良雄大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の名で知られる。)に名代を命じました。

 大石良雄は、それまで、酒に飲まれる一面があり、何をやってもぱっとしないことから、昼行灯(ひるあんどん)と陰口を叩かれていました。

 行灯とは、照明器具のことですが、昼にあっても何の役にも立たないことから、役に立たない人のことを、昼行灯というのです。

 

 水谷家では、末期養子が認められず、城持ち大名から降格されることに必死の抵抗を示す家臣もおり、そのような中、大石良雄は単身、備中松山城に乗り込み、水谷家家老の鶴見内蔵助と対談し、無血開城の合意を得ました。

 城の受け渡しを終え、浅野長矩は赤穂に帰国しますが、その後に備中松山藩の藩主となる安藤重博が入城するまで1年半に亘って、大石良雄が在番として留まり、備中松山城の管理を任され、それを見事に果たしました。

 

 その後、備中松山藩の藩主は、安藤家石川家板倉家と変わっていきます。

 

 ◆備中松山城のその後

 

 明治政府は、明治7年(1873年)に廃城令を出し、多くの城が破却されましたが、備中松山城は、麓の御根小屋は破却されたものの、臥牛山に築かれた備中松山城は、解体されず、7円(現在の価値で約5万円)という格安の価格で商家に売却されましたが、そのまま放置され、荒廃していきました。

 昭和初期に高梁町によって修復され、現存天守として残ることとなりました。その後、門や櫓などの復元もされていきました。

 

 次回お話ししますが、陽明学者山田方谷の英断がなければ、戊辰戦争で新政府軍の猛攻を受け、備中松山城が江戸時代に大改修されたときのままの姿を今に残すこともなかったかもしれません。

 

◇次回予告

 備中松山城の見学を終えた私たちは、T本君の運転で、最上稲荷として有名な妙教寺へと向かったのですが、次回はそのお話の前に、幕末の備中松山藩藩主板倉勝静(いたくらかつきよ)と、陽明学者の山田方谷(やまだほうこく)のお話をしてから、妙教寺のお話をさせていただきます。 

 

 

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