山形・米沢旅行二日目(平成29年7月16日(日))、上杉神社の参拝を終えた私は、上杉神社の表参道から舞鶴橋を渡り、右手にある松岬神社へと向かいました。

 

◇松岬神社

 明治35年(1902年)4月26日に上杉神社は別格官幣社に列せられ、この時に新たに米沢城二ノ丸世子御殿跡に設けられた摂社が松岬神社(まつがさきじんじゃ)で、そのときに上杉神社上杉謙信と共に合祀されていた米沢藩第9代藩主上杉鷹山松岬神社に遷されました。

 松岬神社の鳥居の前に、上杉鷹山公之像(座像)があります。

 

(松岬神社/上杉鷹山公之像)

 

 松岬神社は、上杉鷹山に加え、大正12年(1923年)4月に米沢藩初代藩主の上杉景勝を、米沢市市制施行50周年にあたる昭和13年(1938年)には、上杉景勝の家老直江兼続上杉鷹山の師である細井平洲上杉鷹山の下で鷹山の改革を支えた竹俣当綱(たけのまたまさつな)及び莅戸善政(のぞきよしまさ)を合祀し、現在に至っています。

 

(松岬神社/境内) 

 

 松岬神社の境内には、「伝国の辞」の碑があります。 

(松岬神社/伝国の辞の碑)

 

◇上杉記念館

 

 松岬神社の参拝を終えた私は、上杉記念館を訪れました。

 

(上杉記念館)

 

 明治29年(1896年)に米沢城二ノ丸跡に、総ヒノキ入母屋造りで米沢藩第13代藩主上杉茂憲伯爵の邸宅として建てられたのが、上杉伯爵邸ですが、大正8年(1919年)5月19日の米沢大火で焼失してしまいました。大正14年(1925年)に再建され、庭園は浜離宮に倣って作られました。この建物が、国指定登録有形文化財になっています。

 現在、旧上杉伯爵邸上杉記念館となっており、建物の見学をすることができ、さらに米沢藩第9代藩主上杉治憲上杉鷹山)が凶作に備えるために編纂した食の手引書『かてもの』に倣い、その味を再現した米沢の伝統郷土料理を味わうことができます。

 

 上杉記念館の敷地内にも上杉鷹山公像(胸像)があります。

 

(上杉記念館/上杉鷹山公像)

 

 ところで、前日、山形城址を訪れたことをFacebookに投稿したところ、伊達政宗ファンの友達がコメントをくれたので、「明日、伊達政宗生誕の地である米沢を訪れるよ。」とコメントしたら、ロースクールでお世話になった刑事訴訟法のS水先生から「我妻榮の生誕の地でもありますね。」とのコメントをいただきました。

 上杉記念館の上杉鷹山公像の写真を撮り、ふとその右脇を見たら、何と、その我妻榮の名前が刻まれた標柱が立っていたのです。近づいて見ると、その後ろに植えられている白ツメモドキが、我妻榮お手植えとのことでした。

 

(上杉記念館/我妻榮お手植えの白ツメモドキ)

 

 我妻榮(わがつまさかえ)は民法学者で、日本国憲法制定に伴い、家族法(民法のうち、親族法と相続法を合わせた概念)の大改正をした際の立案担当者の一人でもあります。昔の司法試験受験生は、民法は必ず通説たる我妻民法から学んだのですが、私も、大学1年生の民法の一番最初の授業は、我妻榮の『私法の道しるべ』から学びました。

 我妻榮は、第一高等学校時代、東京帝国大学時代を通じて、岸信介元首相と同窓で、その岸信介首席を争ったほどの秀才だったそうです。

 ちなみに私は、我妻榮が米沢出身だというのは、恥ずかしながら、S水先生のコメントで初めて知りました。

 

◇伝国の杜

 上杉記念館の次に、上杉記念館の東側にある伝国の杜を訪れました。伝国の杜は、山形県立の置賜文化ホールと、米沢市立の米沢市上杉博物館が合築された施設で、上杉博物館には、数千に及ぶ上杉家所縁の貴重な品々や国宝が収蔵されており、企画展示室では、置賜の歴史、上杉文化など歴史や美術に関する企画展や、郷土所縁の作家や作品を取上げた展示がされています。

 この上杉博物館の、郷土の有名人を紹介するコーナーの中に、我妻榮のコーナーもありました。

 

◇上杉鷹山

 これまでお話しているように、今回の旅先を米沢に決めた最大の目的は、私が大好きな人物の1人である上杉鷹山でした。

 

 上杉鷹山(うえすぎようざん)は、宝暦元年(1751年)7月20日、日向国高鍋藩第6代藩主秋月種美(あきづきたねみつ)の次男として生まれ、10歳のときに米沢藩第8代藩主上杉重定の娘幸姫(よしひめ)の婿養子となって、16歳で元服し、江戸幕府第10代将軍徳川家治から偏諱を受け、上杉治憲(うえすぎはるのり)と改名し、17歳で家督を継ぎました。

 治憲の実母は、筑前国秋月藩第4代藩主黒田長貞の娘春姫で、春姫の実母は米沢藩第4代藩主上杉綱憲の娘豊姫でしたので、治憲上杉家の血筋でした。

 

 上杉景勝は、関ヶ原の戦いで敗れた西軍に味方したことにより、会津120万石から米沢30万石に減封・転封され、さらに第3代藩主上杉綱勝が嫡子も養子もいないまま急死し、その際の家督相続の不手際で、ペナルティとして米沢藩は30万石から15万石へと減封となりました。

 

 しかし、上杉謙信を藩祖とする名門意識もあって、上杉景勝を始めとする歴代藩主は、越後以来の家臣を一切リストラしなかったことで、米沢藩の財政は逼迫し、借金は16万両(現在の価値で約160億円)になり、治憲の養父である第8代藩主上杉重定は、幕府に領地を返上することも検討していたそうです。

 

 米沢藩の財政逼迫は、江戸の町人にも知れ渡っていたそうで、このような洒落巷談が流行っていました。

 

「新品の金物の金気を抜くにはどうすればいい?『上杉』と書いた紙を金物に貼れば良い。さすれば金気は上杉と書いた紙が勝手に吸い取ってくれる」

 

 このような中、藩主に就任した治憲は改革に着手します。

 

 治憲は、家格にこだわらず、竹俣当綱(たけのまたまさつな)や莅戸善政(のぞきよしまさ)を重用し、大倹令を発布し、質素倹約を奨励し、治憲も自ら衣服は木綿にし、食事も一汁一菜を通し、藩主の江戸仕切料(江戸での生活費)を1500両から209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどして、範を示しました。

 一方で、田畑の開墾、桑・楮(こうぞ)・漆などの栽培、養蚕・製糸・織物・製塩・製陶などの新産業の開発に力を入れました。米沢織お鷹ぽっぽを始めとする笹野一刀彫、郷土料理の米沢鯉など、治憲が興した産業は現在も米沢の伝統となっています。米沢焼も、治憲が興した成島焼を昭和50年に再興させたものです。米沢織は、武家の婦女子に内職として習得させました。また、下級武士を開墾事業に動員し、それに参加した武士には、土地と家屋を与えるなどの優遇措置をとりました。これらは、租税を食い扶持とし、政治や行政を行う身分の武家にも産業の担い手にならせようとしたわけです。

 

 さらに閉鎖されていた学問所を、治憲は師である細井平洲藩校として再興させ、藩士、農民など、身分にかかわらず学ばせました。藩校は細井平洲によって興譲館と名付けられ、これが現在の山形県立米沢興譲館高等学校となっています。

 

 米沢藩の重臣たちは、上杉謙信を藩祖とする名門意識からか、高鍋藩3万石の小藩から養子となった若き治憲を侮っていました。そして、重臣を差し置いて、家格の低い竹俣当綱莅戸善政を重用したことも反発を買いました。さらに守旧派の重臣たちは、農民や商人と同じようなことを武家にさせようとしていることで、名門上杉家の家名を貶められるのではないかということを恐れたのかもしれません。

 

 そのような中、安永2年6月27日(1773年8月15日)、改革に反対する重臣7名が、改革中止と竹俣当綱等の罷免治憲に強訴する七家騒動が起きました。治憲は、これを教唆した藁科立沢斬首、首謀者の須田満主(江戸家老)と芋川延親切腹とし、他の関与者も隠居及び閉門、又は蟄居などとし、果敢に処断し、改革を続行します。

 

 これで改革は軌道に乗ったかに思われましたが、天明3年(1783年)、浅間山が噴火し、天明の大飢饉が発生し、米沢藩は11万両に及ぶ被害を出し、治憲はこの2年後、責任を取って隠居します。

 

 治憲には、実子の上杉顕孝がいましたが、養父の第8代藩主上杉重定の実子の上杉治広を養嗣子とし、顕孝治広の養子となっていました。

 治憲が養嗣子の治広に家督を譲る際に申し渡した藩主の心得が、松岬神社の境内に石碑が置いてあった「伝国の辞」です。

 

《伝国の辞》

 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
 右三条御遺念有間敷候事

 天明五巳年二月七日  治憲 花押

 治広殿  机前

 

 治広が藩主に就任して5年が経ち、米沢藩の借金は30万両まで膨れ上がってしまったことから、治憲の再登板を望む声が大きくなり、治憲は再び改革を指揮することになります。

 

 寛政6年(1794年)に、再び治憲を悲劇が襲います。江戸藩邸にいた実子の上杉顕孝疱瘡で19歳の若さで病没してしまいます。

 

 治憲の悲しみは深く、顕孝の遺骸が米沢城に着いた時に、治憲は次の歌を詠みました。

 

 十年余り 見しその夢は さめにけり 軒端に伝う 松風の声

   by上杉治憲上杉鷹山

 

 顕孝が病没したため、第8代藩主上杉重定の長男上杉勝煕(第10代藩主上杉治広異母兄)の子・宮松(後の米沢藩第11代藩主上杉斉定)を治広の養嗣子とし、治憲宮松の教育をします。

 

 治憲は、享和2年(1802年)に剃髪し、鷹山と号します。

 

 文化9年(1812年)には、治広中風隠居をし、治広の養嗣子となっていた上杉斉定が家督を継ぎます。

 

 鷹山は、文政5年(1822年)逝去するまで、後継者となった第10代藩主上杉治広、第11代藩主上杉斉定を補佐しながら改革を続け、鷹山が亡くなった翌年、米沢藩は30万両あった借金を完済することができました。

 

 鷹山伝国の辞を養嗣子の治広に送った際、鷹山の実子の上杉顕孝が世子(跡継ぎ)になるため、その心構えとして顕孝に送ったのが、上杉神社の表参道の石碑に刻まれた次の言葉です。

 
なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり
   by
上杉治憲上杉鷹山

 これは、
まさに鷹山生き様そのものを表した言葉だと思います。

 

 上杉鷹山については、さらにお話ししたいエピソードが多数あるのですが、それはいつかの機会に、歴史ブログで詳しくお話させていただきたいと思います。

 

◇米澤牛DININGべこや

 さて、伝国の杜の見学を終えた私は、歩いて予約していた米澤牛DININGべこやへと向かいました。米澤牛DININGべこやは、『コラボ企画』の相方であるリコラさんからお勧めいただいたお店です。

 

 まずは生ビールを注文。

 

(米澤牛DININGべこや/ビール)

 

 そして、フィレステーキのセットを注文し、さらに野菜スープも注文しました。

 

(米澤牛DININGべこや/サラダ・ローストビーフ・三点盛り)

 

(米澤牛DININGべこや/米沢牛フィレステーキ)

 

 前日、山形市の酒菜一山形牛をいただいたのですが、正直、山形牛米沢牛の「味の違いを簡潔に述べよ。」と言われても、説明は難しいです。ただ、山形牛に比べ、米沢牛の方が基準が厳しいのですが、専門家によると、味の違いは、米沢牛の方が脂の旨味があるそうです。

 

 米澤牛DININGべこやを出た私は、近くでバーなどがあれば入ろうと思ったのですが、連休明けに裁判所に提出しなければならない書類のことが頭を過り、飲みなおすのを断念し、コンビニで缶チューハイを買い、ホテルに戻って、それを飲みながら仕事をすることにしました。このおかげで、仕事はかなり捗りました。

 

◇次回予告

 翌朝、チェックアウトした私は、宮坂考古館へ向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

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