さて、今回は、ハワイに旅立つ前にお話しさせていただいた『歴史コラムVol.3~二俣城の戦い』の続編です。 

 


◇清瀧寺

 『歴史コラムVol.3~二俣城の戦い②(中編)http://ameblo.jp/tribune-ns0731/entry-11443714136.html)でご紹介させていただきましたように、武田信玄二俣城の戦いに勝利したの最大の要因は、天竜川から水を汲み上げていた井戸櫓に大量の筏をぶつけて破壊し、水の手を絶ったことにありました。

 その井戸櫓は、復元され、二俣城が廃城になった後に二俣城下にある清瀧寺(静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)に移築されました。

 

清瀧寺井戸櫓

 この
清瀧寺は、私の父方の祖父母の墓所で、父の実家から徒歩数分のところにあるので、父の実家に遊びに行くと、いつもこの井戸櫓の前に遊びに行っていました

 この井戸櫓の左手の坂を登ると、寛文8年(1668年)に建てられた重厚な
山門があります。

 

清瀧寺山門

 

 この山門の右手に、本堂があります。

 

清瀧寺本堂
 

 

 この本堂の向かって左手奥に、檀家の墓が建ち並んでおり、その中に私の父方の祖父母の墓もあるのですが、その墓地を見下ろせる丘に続く階段があります。
 

信康廟入口

 この階段の中程を右手に曲がると、関所のような
があり、その門の右手には、二俣城の戦いで善戦し、後に三方ヶ原の戦いで討死した中根正照や、武田信玄病死後に二俣城を奪還した後に二俣城主となり、後に初代小田原藩主となった大久保忠世などの墓が建ち並んでいます。
 そして、その先に朱色の扉に徳川家の
三ツ葉葵の紋が入った奥の門があります。

信康廟
 

 この奥の門の先に、徳川家康の長男である松平信康を祀る信康廟があります。

信康廟②

 
松平信康(幼名は父の家康と同じ竹千代)は、永禄2年(1559年)3月6日、今川家の人質として駿府にいた松平元康(後の徳川家康)と、今川家重臣・関口親永の娘で、今川義元の姪でもあった瀬名姫(後の築山殿(つきやまどの))との間に生まれました。

 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで
今川義元が討死したのを機に、松平元康は、今川義元から偏諱(名前の一字をもらうこと)された“元”の字を棄てて家康と改名し、今川家から独立し、尾張の織田信長と同盟を結びました。
 
 永禄10年(1567年)5月、9歳の
竹千代は、織田信長の娘である五徳姫(別称・徳姫)と縁組し、6月には父・家康浜松城に移ったことから、岡崎城を与えられ、7月には元服し、義父の織田信長から“信”の字を偏諱され、信康と名乗ります。

 天正3年(1575年)、17歳で
長篠の戦いで初陣を飾ったのを皮切りに、信康は岡崎城を拠点に武田家との戦いで多くの軍功を挙げていきます。

 
 その松平信康の霊廟が、なぜ二俣城下の清瀧寺にあるのでしょうか


◇次回予告

 前置きが長くなってしまいましたが、次回から、その松平信康悲劇の物語真相に迫っていきたいと思います

 

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 

 

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