『ローマ人の物語』などの著者である塩野七生氏は、著書の中で、このように述べています。
【嫉妬とは、自分よりも優越している者に対して憎しみの心をいだくこと】
【嫉妬とは、相手に対して能力に劣ることの無意識な表われにすぎない】
いつの世も、政治を誤らせるのは、凡庸な者、あるいはその凡庸な者を子に持った親の嫉妬と歪んだ執念なのかもしれません。
大津皇子は、663年、天武天皇と大田皇女(天智天皇の皇女)との間に生まれました。
『懐風藻』には、大津皇子の人柄をこのように記しています。
「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す。」
文武に勝り、人望に厚く、プレイボーイであった大津皇子に対する凡庸な異母兄・草壁皇子の嫉妬はいかばかりであったのでしょうか
草壁皇子の母・鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の心中も、穏やかではいられなかったことでしょう。
そのような中、草壁皇子の妃となっていた石川郎女(いしかわのいらつめ、大名児)が、大津皇子に心奪われ、胸を熱くしたのも当然の結果といえます。
しかし、その石川郎女との恋が、大津皇子の死をより悲劇的なものに彩っていきます。
万葉集に遺された二人の歌からは、二人の熱い想いだけでなく、悲壮感がにじみ出ているように思えます。
大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首
【あしひきの 山のしづくに 妹(いも)を待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに】
石川郎女、和(こた)へ奉る歌一首
【吾(わ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに 成らましものを】
大津皇子の場合、凡庸な草壁皇子と、その母・鵜野讃良皇后の嫉妬だけでなく、鵜野讃良皇后自身が、自ら権力をその手に欲したことが、大津皇子の悲劇的な死へのカウントダウンを早めたのかもしれません。
現に、鵜野讃良皇后は、天武天皇の死後、皇太子の草壁皇子に即位させることをせず、自ら天皇に即位(諡号は持統天皇)したのです
私は、この小説を読む以前から、大津皇子には、妙なシンパシーを感じていました。それは、もしかしたら、単なる判官びいきなのかもしれませんが・・・。
他方、持統天皇については、特別な感情は抱いていませんでしたが、その濃い個性、権力欲、嫉妬に狂う様は、前漢の呂后、唐の武則天(則天武后)にも匹敵すると感じました。
物語の後半、天武天皇が死の病に伏せるころから、急速に物語のピッチが上がり、大津皇子が悲劇的な死へと向かう切迫感がリアルに伝わってくる中、鵜野讃良皇后の用意周到かつ迅速に大津皇子を追い詰めていきます。
そこ見えるのは、権力欲に取り憑かれた悪魔そのもの
げに恐ろしきは、凡庸な子を持った親の嫉妬と、権力欲、といったところでしょうか・・・
◇次回予告
今回、「嫉妬」という切り口で、大津皇子と鵜野讃良皇后、草壁皇子の関係性を捉えてみましたが、嫉妬と似た言葉に、羨望という言葉があります。
そこで次回は、嫉妬と羨望の違いについて、考えてみたいと思います
本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m
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