拓真が亡くなってから、家族は一層、ばらばらになった。それはもう、耳を澄ませば音が聞こえてきそうなほど、見事な崩壊っぷりだった。光を失った家庭は闇を走り、どこまでも歩みを止めない。
母は担任をしている生徒の父親と浮気をしており、家には度々、無言電話や中傷のファックスが届く。父も父で、完全な無気力状態に陥り、学校へ行くほかにはどこにも出掛けず、休日は一日中パジャマ姿のまま、居間のソファでぼーっと宙を見上げている。
陽の当たる縁側で、唯一、毎日私の帰りを心待ちにしていてくれたおばあちゃんは、3年前に他界した。それは、ちょうど私が中学校の修学旅行に出掛けていたときのことだった。初めて京都を訪れ、クラスメイトとそれなりに楽しい時を過ごした。そして旅を終え、右手に袋いっぱいに詰めた八橋を抱えながら家路に着くと、家の玄関には黒い服を着た数人が静かに列を作っていた。運命はどこまで、私に残酷な道を選ばすのだろうか。
「旅行中だし、知らないほうがいいと思って」
と、顔も見ずにさらりと言い放った母に、私は怒りを覚えるよりも先に、飛び掛っていた。母に反抗するのは、これが最初で最後だった。
おばあちゃんの死は、私にとっての帰る場所の喪失を意味した。拓真の死に比べたら、おばあちゃんの死なんて、父や母にしてみれば、鼻先をつままれる程度の出来事だった。でも、私にとっては、ある意味で拓真の死よりも何倍も辛い人生の始まりを意味していたのかも知れない。それは、3年経った今、身にしみて感じていることだった。
事故当時、私と同じ7歳であったこと、そして少年の苗字が「木下」であること、そのたった2つの情報こそ、私が両親に教えてもらった全てだった。両親はあの事故のことを、ほとんど私に教えなかった。事故はひとりでに、いつか風化されることを静かに待っていた。
私はある日、こんなことを思った。犯人が私と同じ年齢ということは、私が大人になればなるほど、成長すればするほど、犯人の少年も、この世界でのうのうと大人になっているということを意味する。私が20歳を迎えれば、犯人もどこかでしゃあしゃあとその成長を祝われている。その事実が、私に対する両親の擦り切れた愛情の原因になっているのではないか。両親は、私の背後に犯人を見ている。私を通して、犯人の息を感じている。だから両親は、私を心から、憎んでいる。
*
7月に入って2週目の水曜、登校前にふとニュースを見ると、「今日にも梅雨明け」とアナウンサーが言っていた。その爽やかな声の調子を聞いていて、ふと、毎朝自分が起きてから学校へ出かけるまで、一度たりとも声を発しないことに気付く。もちろん、その日も、私は「行って来ます」など言わない。黙って鞄を手にし、黙ってローファーに足を滑り込ませる。ガチャン、と大きな音を立てた後、家の中で何が起ころうと、何かが壊れようと、私は全くの無関心だ。
その朝は珍しく、乗り換えのために電車を降りたとき、クラスメイトの中田秀美に出会った。咄嗟に「おはよう」と言おうとしたが、何せこっちはその日初めて声を出すのだ。思うように声は出ず、こもった小さな呻き声のようになってしまった。長い階段を上りながら、隣りで秀美は、昨日観たお笑い番組についてけらけらと思い出し笑いをしながら何かをしゃべっていた。それを3分の2以上聞き流し、ふと足元に目を落とすと、そこには濃い茶色い革財布が落っこちていた。考えるよりも先に、私はそれを拾っていた。「きったなーい」と秀美は顔を歪めたが、私はこれ以上、秀美の話に耳を傾けることに耐え切れず、それを交番に届けることにした。半ば無理矢理に、秀美と別れた。背後では秀美が、「学校は?」ときょとんとした顔でこちらを見ていたが、私はさっさと、乗り換えの駅の改札を出て、駅前の交番を探した。
学校へ行かない理由が欲しかった。学校へ遅れて行く理由を、私は毎朝探していた。それを今さっき、ようやく見つけたと、私は密かに心を躍らせていた。交番へ届けた後、どうしようかな。本屋にでも行って、ファッション雑誌でも立ち読みしに行こうかな。でも制服でこの時間に出歩くのは危険だし、駅ビルに入っているお店で、とりあえず着替えるための服を買うのもいいな。そこまで考えながら歩いていると、大通りを渡った先に、私の近所の交番よりも少し大きめな、近代的なつくりをした交番が見えた。私は、拾った財布の中を開けることなどしなかった。財布など、私にとってはどうでも良かった。誰かの落としていった財布は、私と学校とを遠ざける一つの道具に過ぎなかった。それは財布でも、急病人でも、足を挫いたおじいさんでも良かったのだ。ただ単に、学校へ遅れていくための、真っ当な理由となり得れば。
警官の制服を目の前にすると、人間、ほんの少しだけ怖気付くのは気のせいだろうか。自分は財布を拾うという善意の行為をしたのに、その裏にある私の本心を見抜かれているような気がしてならない。
財布を拾った場所、財布を拾った時間など、必要最低限のことを聞かれた後、私はさっさと交番をあとにしようとした。すると「念のため」と言われ、警官は名前と住所、携帯電話の番号を書く紙を、私に差し出した。それに、私は全くのデタラメを書いた。名前は、さっき駅で別れたクラスメイトの「中田秀美」にして、住所は隣町の住所にした。そして携帯電話だけは何故か上手く思い浮かばず、まごついているのも怪しいので、咄嗟に正しいものを記入した。
「持ち主が分かったら、ご連絡することもありますので・・・」と警官は控えめに言い、私はようやく任務を終えた。振り返って外へ出ようとしたとき、ふと前を見ると、猛スピードでこちらに向って走ってくる人がいた。私は呆気に取られ、その人が交番に滑り込んでくるまで、一切身動きが取れなかった。そしてその青年は、スピードを緩めないままに交番の中に入り、カウンターの前で「財布、届いてませんか?」と、息を切らしながら先程の警官に尋ねた。「失礼ですが、お名前は?」と冷静に聞き返す警官に、青年は、
「木下です、木下鉄平・・・」
私はそこまで聞いて、振り返ってカウンターを見た。「木下」という苗字につい反応してしまうのは、もう習慣になっていた。その「木下」という青年は、乱れた前髪すら様になるほど整った顔立ちをしており、私はついはっと息を飲む。少なくとも、私が通うあの高校にはこういう男子は居ない。きりりとした表情は、あの中途半端な空間からは決して生まれない。ふと青年が持っている学校鞄に目をやると、そこには県でもトップの進学率を誇る優秀な男子校の校章が刻まれていた。
「あ、中田さん」
後ろで警官が、私のデタラメな名前を読んだ。2秒遅れで反応した私に、「持ち主の方、現れました」と笑顔を見せた。その瞬間、初めて私と木下は対面する形になった。精悍な顔立ちの下には、何か愁いを隠している、そんな気がした。
その時は、気付くはずもなかった。何故なら、私はその瞬間、完全に彼に見とれてしまっていたからだ。私の心は、兄を死なせた「木下」という憎き名前に反応するよりも、あのきれいな瞳に深く大きく、そして情熱的に反応してしまっていた。
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