足がだるい。気が重い。さらに言うと、胃が痛い。
また七月にはいったばかりと言うのに、今日は日中八月上旬の気温まで上がるらしい。額から滲み出る汗を手でぬぐいながら、もう片方の手で制服のスカートの裾をばさばさしていると、前でつり革につかまっていたあまり清潔感のないおじさんにねちっこい舌内をされた。ちょうどそのおじさんお後ろには「電車でするのはやめよう」と書かれたポスターが貼っており、鏡片手に化粧をする女性の絵が描かれている。
不快度指数はさらに増す。なんでこんなに窮屈なんだ。
私は高校までの道のりを今日ほど苦痛に感じたことはないかもしれない。そしてそれは何もかも、あの時財布を拾ってしまったせいだ。あんなの拾わずに素通りしていれば、こんなに嫌な気持にはならなかったのに―――。
昨日は結局、一日学校をさぼってしまった。
交番に財布を届け、「木下鉄平」という強烈過ぎる少年と出会った後、私は考えもなく再び電車に乗った。目的地はない。そして一時間ほど電車に揺られ、なんとなく目に留まった一度も行ったこともない、何があるのかも知らない小さな駅で降りた。
一瞬過去にタイムスリップしたような錯覚に陥った。その駅には人影がなく、駅そのものが静まり返っていたのだ。少しだけ迷った後たった一つしかない改札を出ると、そこはいかにも時代遅れと言うか、きな臭い感じのする店が所狭しと並んでいた。天気のよい平日の昼間と言うのに、商店街の半分近くはシャッターが閉まり、人っ子一人見当たらない。
自分の住んでいる近くに、このような廃れた場所があることに驚いた。そして、私はかすかに感動した。
私は自分が学校をサボっていることも忘れ、わくわくする気持のまま商店街を歩いてみた。すると少し歩いたところに、この世の終わりのようなか細い字で「日本一のコーヒー」と書かれた看板のカフェを見つけた。興味が湧いて恐る恐る中を覗こうとしたが、窓ガラスが汚く店内がよく見えない。だが一応「営業中」という札が扉にぶら下がっていたので、私は意を決してその店に入ることにした。
予想以上に重たい扉を開けると、来客を告げる鈴の音がチリンチリンと鳴り響いた。見ると店内は日当たりが悪いようで薄暗く、広さもあまりない。だがアンティークな雰囲気の清潔そうな椅子と机がきっちりと並べられ、店内の空気をゆったりとしたジャズの曲が満たしていた。カウンターにいた店員らしき初老の男性ははじめ、こんなことはありえないといった風に驚いた表情で、不法侵入者を見るような警戒した目で私を睨んだ。しかしすぐに、ここが店であることを思い出したようで、「いらっしゃいませ。」と伏し目がちに呟いた。
私はその男性に小さく「こんにちは」と呟いて頭を下げてみた。すると男性は警戒心を解いてくれたようで、顔中に皺を寄せて、安堵したような、照れ笑いのような、にっこりとした表情を返してくれた。その表情をみて私はなんだか胸がドキリとした。彼はとても目鼻立ちの整った上品な顔をしていたので、私は生まれて初めて初老の男性に美しさと淑やかさのようなものを感じたのだ。若い頃はさぞモテただろう。
私は少し緊張しながら、店の隅にある窓際の席を選んで座った。そして一番安い280円のコーヒーと、小腹が空いていたので半熟卵のサンドウィッチを頼んだ。
運ばれてきたコーヒーは、冗談抜きで本当に美味しかった。私はコーヒーなんてスタバとドトールのぐらいしか飲んだことないけど、香りの深さといい、芳ばしさといい、今まで飲んだどのコーヒーよりも美味しいことだけはわかった。一緒に頼んだサンドウィッチのほうも、挟んである目玉焼きのトロトロの半熟具合と熱々で固めのパンの組み合わせが最高だった。
サンドウィッチをぺろりと食べ終わり、冷めてぬるくなったコーヒーをゆっくりとすすりながら、私は今朝の出来事をゆっくりと思い返した。
やっぱりかっこよかったな。顔だけは。
私は自然と木下鉄平のことを思い出していた。彼はあの人間離れした美しさゆえに、性格が変態並みにゆがんでしまったのかもしれない。
――「木下」。
その苗字を聞くと、自然と憎しみが湧く。そして、拓真の笑顔を思い出す。
即死だったこと。それだけが、事件の唯一の救いだったかもしれない。拓真はきっと、何が起こったかもわからないまま、この世を去ってしまったのだ。
私は事件の遺族として、周囲に可哀想と思われることは嫌だし、自分を可哀想だと思うことはもっと嫌だ。でも、こうやって静かな気持になってみるとわかる。私はやっぱり、世間一般的に言う可哀相な人なのだと。
でもそれでも、私は「可哀相な自分」に酔うことで、あらゆる失敗に言い訳をしたくないのだ。「心の傷」、「過去のトラウマ」、ぞんなのどうだっていいじゃんか。なのに、私はやっぱり「可哀相な人」から完全に抜け出せることなんてできない。事実、拓真は死んじゃったから。
だから、この袋小路に繰り返し蓄積された憎しみの対象は、全て幻想の中の「木下」に向う。「私の平和な日常返してよ」っていう無理難題をふっかけて、か弱い被害者ぶるために―――。
ふと気がつくと、店を満たしていたジャズの音楽の代わりに、浜崎あゆみの曲が流れていた。浜崎あゆみといってもデビュー当初の懐かしい曲だ。私が制服姿だから、先ほどの初老の男性が気を使って探してきてくれたのかもしれない。でも、店の雰囲気とあまりにちぐはぐで、なんだかとても可笑しくなってしまった。
結局私は「日本一のコーヒー」でそのまま5時間近く時間を潰し、学校の授業が終っていることを確認してから初老の男性にお礼を言って席を立った。
私は嬉しくなった。自分だけの秘密の場所を見つけた気分だった。
なかなか充実した一日だと、なんだか胸が痛いような喜びを感じた。ここ何年か感じていなかったほど、穏やかな気持になった。ここまでは、最高の一日だったのだ。本当、ここまでは。
私は帰宅するために、再び電車に乗り、家の最寄り駅で降りた。そして駅前にあるマックから、学生の男女が手を繋いで出てくるのを見るともなしに見た。
そして次の瞬間、私は男の方の横顔に視線を奪われた。
木下鉄平だった。改めてみると、やっぱりかっこいい。彼の周りだけ空気が薄くて現実味がないようだ。
そうなると反射的に気になるのは一緒に手を繋いでいる彼女の「顔」だ。こんなに美しい男性と手を繋いで歩くなんてどんな人だろう…。
そしてその人物が誰なのか分かった瞬間、私は胃を氷の手で引っ張られたような感覚に襲われた。
秀美だ。
私はそのとき、自分がそこまでショックを受けた理由が、自分でもわかっていなかった。神のように美しい「木下鉄平」が、ただの女と(もっというとギャルっぽい秀美と)手を繋いでいたことだけでも、十分にショックだった。
でもそれだけじゃない。遅れて記憶の波が押し寄せた。
財布を拾ったとき、私は咄嗟に秀美の名前を書いた。そして、木下鉄平は、はっきりとそれを見ていたのだ。
木下鉄平は、秀美の名を名乗る女のことを、秀美に話したのだろうか。そして、秀美はそれが私のことだとわかっただろうか。今頃秀美は全てを知り、二人で楽しそうに私を馬鹿にしていたのだろうか。そしてあの得意な口で尾ひれをつけて、明日にでも私の陰口を友達とするのだろうか。
*
私は気持の乗らないまま教室に入り、自分の机についた。秀美はもう先に着いていたようで、机の上にごちゃごちゃした女性雑誌を広げたまま、肘突いた手の上にあごを乗せてぼーっとしていた。
私は物事を悪いほうに悪いほうに考える癖がある。別に秀美の名前を咄嗟に使ったことだって、そんなに馬鹿にされるようなことじゃないんじゃないの?と時折自分に問いかけては、さらに悪い妄想を繰り返す。
秀美の金髪の後姿が視界に入る。
私はただでさえ秀美が苦手なのだ。そばに寄るだけでわかる甘い香水の匂い。素肌の分からない濃い化粧にカラカラと大げさな笑い声。そのくせ人に嫌われるのは嫌なようで、過剰に相手の出方を伺ってくるところがある。
そのまましばらく秀美の後頭部を見つめていると、不意に秀美が振り返り、一瞬ばっちりと目が合った。
私は反射的に目をそらし、とりあえず一時間目の英語の教科書を必死で探すことにした。すると、朝礼まであと5分しかないというのに秀美が席を立つのが視界の端で見えた。そして予想外なことに、秀美は私の席の横までやってきた。
「おはよう和葉。昨日、ごめんね。」
秀美は唐突に謝った。
「おはよう。え、何が?」
私はなるべく平然装って顔をあげた。秀美は妙におどおどした顔をして、なんとなく泣いた後のように瞼がはれぼったく見えた。
「昨日、先に学校来ちゃったじゃん?なんか財布汚いとか言っちゃったし…」
秀美は私の表情を探るようにとぼとぼと言った。全く予想外だった。秀美はそんなことを気にしていたのか。私は不意に木下鉄平と秀美が手を繋いでマックから出てくる光景を思い出した。
「いや、気にしてない。」
「本当に?」
「うん、本当だよ。私、今言われるまでなんのことだかわかんなかったし。」
私はにっこりと笑ってみせたが、内心うんざりしていた。私にそんなに許されることが大事か?しかし、秀美は満足したようで、
「うん、ごめんね。」
とはにかんだ笑顔を見せて自分の席に戻っていった。あの様子だと、秀美は私が偽名を使ったことを知らないようにみえる。朝から続いていた胃の痛みが少しだけ治まった。
*
和葉は、全然気にしてなかったみたい。
秀美は自分の席に戻るなり、嬉しくて1人にっこりした。秀美は和葉のそういうところが大好きだった。何事にもくよくよ悩み続けたりせず、さっぱりしている。きっと、人を恨んだりすることもないのだろう。
それに比べ、自分は本当になんでもくよくよ悩んで、弱い。
秀美は昨日、鉄平に傷跡を見せられても、結局鉄平に対して何も言えなかった。
あんな傷ぐらいで、気持が冷める程の思いではなかった。何故そんなことをするのか、ちゃんと話してほしかったし、鉄平を助けてあげたいとも思った。
でも、それすらも言えなかった。昨日の出来事で、鉄平は結局、自分のことなど少しも好きでなかったことがはっきりとわかったから。
秀美は昨日の夜のようにまた涙が溢れ出るのを、必死でこらえて俯いた。
→→好きになる人 第六話
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