←←好きになる人 第五話
「この鉄釘は俺の十字架。一生消えない罪の証。悪いけどこれ以上は話せない」
昨日、鉄平は太く錆びた鉄釘を握りながら、秀美にこう言った。冷酷で真っ直ぐな視線を秀美に投げかけながら、一人淡々と。下ろしたズボンを穿きなおし、ベッドの上に放り投げたカバンを拾い、鉄平はそのまま無言で部屋を出て行った。どれくらい時間が経ったのだろう、秀美は左目から無意識に流れてきた涙に気づいて、それをそっと左手で拭う。鉄平は、つくづく分からない。分からないことが多すぎて、もうどうしたらいいのか分からない。秀美は一人、ラブホテルから出てきた。周囲の目が気になって、左右を見回してから外へ出ると、弱い雨が降っている。熱されたアスファルトに降り注ぐ雨。周囲には、むせるほどの夏の雨の匂いが漂っていた。
帰り道、少し前を和葉が歩いているのが見えた。秀美は聞いてみたかった。自分とは正反対の性格をしている和葉なら、こういうときどうするのか。自分の彼氏(少なくとも自分ではそう思っている)に、何か重要な秘密があるとわかったとき、どうすればいいのか。考えている間に、秀美は徐々に歩くスピードが速くなり、あっという間に和葉に追いついた。
「和葉、今日これから空いてる?相談があるんだけど」
突然名前を呼ばれて、和葉は驚いているようだった。笑顔でもなく、かといって怒っているようでもなく、いつも通りの調子で和葉は答える。
「え?18時から塾だから、それまでならいいけど」
「ほんと?じゃあ駅前のマック行こう」
秀美は嬉しかった。和葉に相談できることもだが、それ以上に、和葉とこうして一緒に下校して、マックでおしゃべりできることに、秀美はとても心躍らせていた。
「傷?どんな?」
和葉は少しだけ、目を大きく見開いて秀美に問いかける。
「それがね、鉄釘で引っ掻いた傷だったの。彼氏ね、過去に何があったか知らないけど、財布にいつもその鉄釘入れてるみたいで、座るたびにそれが右のお尻に刺さるんだって。全然意味分からないでしょ?」
「鉄釘?」
和葉は途端に表情を曇らせる。鉄釘、、、木下、、、まさかそんな偶然・・・。現実味を帯びてきているこの展開の到来を、和葉は半ば批判的に、しかし驚くほど冷静に見つめている。
「どうしたの?和葉。何か顔色悪いよ。ごめん、なんか私変な話ばっかしちゃって」
「ううん。その秀美の彼氏ってさ、星城高校の人だっけ?名前は?」
「うん、そうだよ。前にも話したっけ?名前は鉄平。木下鉄平。なんで?和葉知ってるの?」
「まさか、知らないよ。でも、知り合いが星城行ってるから、何か聞けるかなと思ってさ」
和葉は必死に平気な振りをした。留まることを知らない濁流のように、灰色の暗い色した過去たちが頭の中をゆっくりうごめいている。ぼやけていたものが、時間が経つにつれ徐々にはっきりとした輪郭を帯び始める。見たくはなかった現実。あの美しい青年が、私の家族を崩壊させた。やはり、そうなのか。
その事実を秀美から聞いてから、どうやって秀美と別れて、どうやって家まで辿り着いたのか、はっきりと覚えていない。気づいたときにはこうして、和葉は自分の部屋のベッドに横たわって天井に視線を投げながら、一人考えていた。
思えば交番で出会ったとき、青年はこう話していた。
「この財布は、僕の罪の証なんだ」
聞いたときは、気にもしなかったこの言葉と、今日聞いた秀美の話。この二つの事実で、いとも簡単に、私の中の憎むべき「木下」という犯罪者と、交番で見たあの美しい青年が繋がる。これは、紛れもない事実なのか。
どうしても会いたい。兄を殺した、悪意なき哀れな犯罪者に。和葉は相変わらず真っ白な天井を見つめながら、静かに、でもとても強くそう思っていた。
大森はあの日から、例の事件のことを片時も忘れることは出来ず、交番の外を行き交う男子高校生に常に視線を投げかけていた。木下鉄平がまたここに現れることなど、到底ありえないことなのに。
でも、大森と木下を繋ぐものが、たった一つだけある。彼が財布を落としたときに念のために聞いておいた、木下の連絡先だ。大森が木下を見つけたところで、連絡がついたところで、どうしようというのだ。成長した犯人が自白するのを見届けて、満足するのは一体誰なのだろう。そんなことを、大森はこの何日間かずっと、ぐるぐると当てもなく考えていた。無論、木下が残していった電話番号にダイヤルすることも出来ないままに。
「10年前、俺が刑事として働いた最後の年に担当していた事件のことを覚えてるか?」
大森は、その夜、夕飯を食べながら妻に尋ねた。
「ええ、もちろん。小学生が釘を置いて、高校生を死なせてしまった事件ことでしょ?あの事件は何とも痛ましかったわよね。あなたも相当苦労して、やりきれない思いで一杯でしたね」
「あの事件の犯人だった少年も、今ではもう17歳で立派な青年になってるだろうと、時々思い出してはいたんだが・・・、実は先日、その彼に会ったんだよ」
「え?あなたに会いに来たんですか?」
妻の景子は驚いた顔をして、途中まで運んでいたご飯粒を、茶碗の上にぽそっと落とした。
「いや、偶然だったんだ。女子高生がたまたま駅で拾って届けた財布が、その少年のものだったんだ。しかもその財布の中に入っていたのが、大きく真っ黒に錆びた鉄釘でね。何とも驚いた。あの釘を見てはっとして、家に帰って昔の資料を引っ張り出して調べてみたら、あの幼かった少年と同じ名前だった」
大森は、色々な感情が込み上げてきて、それをぐっと冷えたビールで押し込めた。
「そんな偶然があるのね。しかも財布の中に釘を忍ばせているなんて、今でもその罪の重さを感じているのかしら。なんだか、不憫だわ。でも反対に遺族の方たちは今このときも、ひと時も忘れずに犯人を憎んでいるだろうし」
景子は細い目をさらに細く、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「ああ。今さらどうすることも出来ないけど、そのままには出来なくてなぁ。こうして再び出会ってしまった以上・・・」
「そうね、あなたの気持ち私も分かる。でも、無理だけはしないでくださいね。10年前の身体とは違うんですから」
そう言って、妻は再びゆっくりと、食卓に並んだ色とりどりのおかずに手をつけ始める。
大森は、妻にこのことを話して、気持ちが落ち着いた。想像もしていなかった出来事が、目の前で起こった。それを無かったことにすることは、大森には無理だった。何かしなくては。そう思って、大森はその夜、かつて同じ事件を一緒に担当していた後輩に電話してみようと決心した。
「そういうわけなんだ。何か、あれ以降、この事件に関わったことで進展はないか?悪意のない少年の悪戯が引き起こしたものだから、おそらく何もないとは思うのだが・・・」
大森は久しぶりに連絡を取った後輩に、事の一部始終を話した。受話器の向こう側で、かつて一緒に事件を追った山中という後輩が、大森の体験した偶然の出会いに、溜息を交えながら驚いているのが分かった。
「そうですね。俺もあの事件は個人的に気にはなっているんで、ちょくちょく調べてたんですけど・・・。ちょっと待ってくださいね」
山中は資料を見てみるからと言って、電話を保留にした。何か分かるかもしれない。受話器から流れてくる、よく聞いたことはあるけれども名前は決して分からない音楽を聴きながら、大森の気持ちは高鳴った。2分くらい、そのままだっただろうか。それまでずっと流れていた保留音が突然中断し、再び山中の声がする。
「すいません、お待たせして。うーん。分かっているのは、犯人の少年が県でも一番の進学校の星城高校に通っていること。あと、亡くなった高校生に和葉っていう名前の妹が居たの覚えてます?その子が橘高校に通っていること、くらいですかね。その少年と妹は同い年なので、狭い町ですし、どこかで知らない間に遭遇していることも考えられますよね。・・・すいません。このくらいのことしか、分からないです。あと、あの事件以降、残された家族は崩壊寸前みたいです。死んだ兄は世間的にも優秀で、両親にも溺愛されてましたからね。妹はかなり、辛い立場にあるようなことを、以前ちらっと聞いたことがあります」
山中は何かしらの資料をばさばさと捲る音を立てながら、一気にしゃべった。
橘高校か・・・。
「わかった。遅い時間に電話してしまって申し訳ない。ありがとう。お前ももう35歳くらいになったのか。10年前はまだ刑事に成り立てで可愛らしかったのに、オヤジになっただろうなぁ。今度久しぶりに飲みにでも行こう。俺ももうあと2年で引退だから、それまでに必ず」
「5歳と2歳になる娘がいて、家じゃ一番のけ者扱いですよ。大森さん、近々絶対行きましょうね。俺もその事件のこと、もっと何か情報ないか探ってみます。今さら何も出来ないのはわかりますけど、大森さんがこうして少年に出会ってしまったからには、何か動きたいっていう気持ち、俺もすごい分かりますから」
そう言って、山中は明るい声の余韻を残しながら、電話を切った。受話器を置いて、山中の家の賑やかなリビングを想像してみる。温かいオレンジ色の灯りの下で、二人の小さな娘がきゃっきゃと可愛らしい声を上げている。それを台所から見守る奥さん。そこへ帰ってくる山中。山中は上着を脱ぐことも忘れて、愛らしい娘たちのもとに駆け寄る。娘たちの声はさらに大きくなって、台所から顔を出した奥さんは、山中に「早く上着を脱いで、手を洗って夕飯の準備を手伝って」と注意するのだろう。そこまで想像して、大森はふっと小さな声を出し、穏やかな顔で笑った。
橘高校・・・。確か、財布を届けてくれた少女は橘高校の生徒だった。まさか・・・さすがにそんな偶然があるものか・・・と思い立ち、大森は次の日、いつもよりも一時間も早く交番へ出向き、あの日少女が書いた名前や連絡先のメモを探し出した。名前はさすがに山口和葉ではなく、中田秀美だった。でも、橘高校の生徒であったことは確かだ。というのも、大森の娘は昔同じ橘高校に通っていて、見慣れていた制服だったことをそのとき確かに思ったからだ。
さて、どうしようか。大森は、その小さな紙切れを見つめながら、考えていた。果たして、この中田秀美に電話したところで、一体何を聞けばいいのだろうか。これは個人情報の濫用になるのだろうか。いや、でも昔の事件に関わっているといえば、紛れもなくそうだ。しかし・・・何かしなくてはならない。しかも、あの妹が今どうしているかも心配だ。大切にされてきた兄が急にこの世から居なくなり、家庭は崩壊寸前だという。
とにかく、まずは妹の山口和葉について、同じ高校である中田秀美というあの少女に尋ねてみよう。深く考えることはやめよう、大森はそう自分に言い聞かせた。第一、中田秀美が山口和葉のことを知っているかどうかすら、分からない。ぐちゃぐちゃ悩む前に、行動だ。
おもむろに、受話器を上げる大森。一つ一つ、決して間違えないよう慎重にダイヤルする。
「はい」
10秒間ほど呼び出した後、中田秀美は電話に出た。
「中田秀美さんの携帯電話ですか?」
「え?」
一瞬何かに戸惑ったような声が聞こえてくる。
「ああ、すみません。私駅前の交番で巡査をしています大森と申します。先日、財布を拾ってくださいましたよね?そのときにお聞きした番号を頼りに、電話いたしました」
「あ、はい。・・・そうですか。で、何でしょうか?」
「はい、あなたに直接は関係はないのですが、お聞きしたいことがありまして。中田さん、橘高校の生徒さんですよね?実は同じ橘高校の山口和葉さんという生徒さんを探しておりまして。山口さんの落とし物を、こちらで預かっているのですよ。もしもあなたが知ってましたら、交番へくるようにお伝え出来ませんでしょうか?」
大森は、用意していたシナリオをいとも本当のことらしく話し切った。
「・・・山口さんのことなら知っています。分かりました。伝えてみます」
随分長い沈黙のあと、中田秀美は静かにそう答えた。
「そうですか、ありがとうございます。学校に直接電話しても良かったのですが、落し物ごときで先生に呼び出されたりしたら不憫でしょう。そこであなたが確か同じ橘高校の生徒さんだったってことを思い出しましてね。急に電話してしまって申し訳ありません。では、よろしくお願いいたします」
ボロが出ないうちに大森はすぐに電話を切った。これで、山口和葉が現れなかったら、この件はそれまでだ。電話をしたことで、大森は晴れやかな気分になっていた。投げられたボールを投げ返し、あとは向こうのボールを待つのみ。大森は交番の外へ出て、大きな伸びと深呼吸をした。この町のどこかで、今日もあの妹とあの少年は生きている。同じように教室に座って、教科書を広げて、退屈な授業を受けたりするのだろう。その二人は、これからどこかで交わるのだろうか。そんな悪戯を、果たして神様は用意しているのだろうか・・・。
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