落語のレコード | talltreeのブログ

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 しおんパパtalltreeです。今回は、先日亡くなった桂米朝さんを悼み、手持ちのレコードをいくつかご紹介して、米朝さんにまつわるお話を書かせていただきます。


 昭和40年代の初頭頃から、関西では上方落語が「流行」となったことがありました。

 多くの大学で「落研」ができ、その後プロの落語家になった人…現六代文枝や笑福亭鶴瓶各氏もそうですね…も多く、中高生もその影響を受けて、主にラジオで、競争するように落語を聴いたものでした。

 右は、昭和46年11月の朝日放送1080分落語会の実況録音盤。午前7時から翌日の午前1時過ぎまで、当時の上方落語協会総勢51名が、入れ替わり立ち替わり演じたのです。トリは米朝さんでした。


 これは大喜利。間抜けな解答には、司会が顔に墨を塗ってます。

 この10年ほど前に放送された、米朝司会の「とんち教室(袋)」も同様の趣向で、TVで見て私、笑い転げてました。当時の小米、後の枝雀がボケ役で、よく顔を真っ黒にしてましたな…。

 いちばん手前で手を挙げてるのは、現ざこばの朝丸ですね。


 前回米朝さんが一度も改名襲名しなかったことを書きましたが、桂の名跡をおおざっぱに順にたどれば、文治-文枝-文團治-米團治と来て、米朝-米之助となります。

 江戸時代に文治が江戸に渡って、明治の初めの総帥が初代文枝。

 この文枝が亡くなった後の高弟たちの争いで、文三が二代目となり桂本流の桂派。一方、文團治や文都・文之助、笑福亭福松らが桂派に対抗してできたのが三友派。明治30~40年代上方落語の黄金時代でした。
 三友派も「文枝」に匹敵する大きな名前がほしいので、一代限りの条件で東京から「文治」を譲り受け、二代目文團治が七代目文治に、二代目米團治が三代目文團治に、と順送りに一挙に襲名興行をしたそうです。

 そして、少し遅れて三代目の米團治になったのが先代の米朝…ただしこれは明治の末の話です。この人の弟子が四代目米團治、つまり米朝さんの師匠です。


 「米團治」という名前をどうするか、すでに昭和40年代の対談の中で米朝さんは悩みを打ち明けています。

 面差しや語り口、そして克明に古典落語を継承する点で、師は吉朝さんに継がせたかったのでしょうね。そしてご子息には米朝を…だったはずです。また、枝雀は元来「桂派」の名跡、系統が異なります。もちろん芸風も。

 米朝さん、弟子・孫弟子は数多くいて、それぞれに逸材揃いですが、「直近」の弟子には先立たれた感がありますね…。


 右とすぐ上の写真は、珍しい出囃子やはめものを集めたレコードです。無形文化財となった林家とみさんの貴重な三味線が聴けます。


 名前の話ばかりで恐縮ですが、このおトミさん、前述の七代目桂文治の妻が下座さんで、この方に師事しました。

 この七代目(ややこしいですが初代の米團治)の所へ来た弟子に名前を付けるとき、自分の「米」と、妻の名前「あさ」の比翼名で「米朝」という名前ができたそうです。

 なお、米朝さんの師匠四代目米團治は、米之助から米團治になっています。


 誠に冗長な話ですみません。むしろこういう名前にまつわるお話を淡々と書きたい気持ちですので、ご容赦下さい。

 それでは最後に、橘ノ圓都・桂米朝二人会の対談を一部抜粋でお聴き下さい。1972年8月、東西落語界最高齢89歳で没。私も亡くなる前後に聴いています。奇しくも米朝さんも同じ享年となりましたね。この対談は「桂米朝上方落語大全集」の購入特典で入手したものです。



 お粗末さまでございました。