「阪神らしからぬ人」の訃報 | Los Tres Diamantes presenta "TIERRA FECUNDA"

「阪神らしからぬ人」の訃報

 元阪神&ハムの榊原良行が肺炎で亡くなったという訃報が飛び込んできました。享年74歳、最近はこの年代の方の訃報が相次ぎます。

 

 浜松商業から中央大、日本楽器を経て'74年(昭和49年)に阪神入団。阪神時代の背番号は37番でした。'81年(昭和56年)にハムへ移籍、'84年に引退したようです。

 

 本職はショートで、阪神時代は藤田平のバックアップ要員でした。やがて藤田平が衰えるとレギュラーで起用されることも増えていきました。内野はどこでもこなすユーティリティープレーヤーでした。ピッチャーの山本和行と同様「阪神らしからぬ選手だなぁ」と思いながら見ていました。手堅い守備はホークスで言うなら森脇浩司と似た雰囲気がありました。そしてトレードマークは何と言ってもバットを極端に短く持っていたこと。いまどきの選手であそこまでバットを短く持つ選手はまずいません。たいして打てもしないくせにバットを満タンに持つ選手のなんと多いことか。'70年代は王、長嶋、野村といった名のあるバッターでもバットは必ず余して持っていたものです。今は無相応な選手が多いなという印象を受けます。

 

 さらに榊原と言えばバットを短く持つここと同様、バットのグリップ部分がいつも松ヤニで真っ黒に変色していました。とにかく個性的な選手でした。ホームランを打った後にガッツポーズや変なパフォーマンスもけっこうですが、ああいうところで個性を出す選手こそがプロだと思います。いわゆる「玄人受け」する選手でした。

 

 経歴の一つでもある楽器メーカーの社会人チームもこの時代ならではですね。同僚に池谷公二郎(広島)や新実悟(ハム→広島)がいたそうです。今、楽器メーカーの社会人チームなんてあるのでしょうか。

 

 '77年だったか'78年だったか、私がまだ中学生の頃に読んでいた週刊ベースボールの巻末グラビアをママチャリにまたがって甲子園に通勤する榊原の姿をとらえた1枚が掲載されていたことを今でも憶えています。

 

 晩年は台湾球界でのコーチ経験も長かったと聞きます。日台野球の架け橋も務めていたんですね。これも立派な国際交流だと思います。

 

 あっ、「阪神らしからぬ選手」が榊原と山本和行なら「THE阪神」という選手はもちろん川藤幸三でしょう。

 

 プロ野球ではありませんが、千葉の習志野高校で監督を務め、'75年(昭和50年)に全国制覇も果たした石井好博氏も74歳で亡くなったようです。'76年の夏の大会のエースはヤクルトの小川GM、主将で4番を務めた岩崎はのちに所ジョージのマネージャーも務めています。