第30回明石原人まつり@石が谷 | Tree Topの魔女たち

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JR大久保駅前にあるちょっとだけスピリチュアルな喫茶店Tree Topに集まる魔女たちのブログです。

サラが明石原人まつりに関わったのは、第5回目あたりからだったと記憶しております。

ちょうど、阪神淡路の地震があった翌年…Tree Topに毎月 旅行雑誌を配達に来てくれる近所の本屋さんが、その月も¥350の雑誌を持ってきてくれて、\400のコーヒーを飲んで帰る…を繰り返そうとしておられました。

この本屋さんのおっちゃんが、大久保町で明石原人まつりを始めたご本人なのでございます。

島根県出身の彼が、大久保町に来て、商店街で本屋さんを始められ、町の人々とお付き合いをする中で、この町に対する愛情と共に湧いてきたのが、「どうしてこんないい町をもっと一緒になって盛り上げようとしないのだろう…」と言う思いでございました。

そういうことって、外から来た人の方がよくわかるものなのでございます。

ずーっとその中にいると、それが当たり前なので、なかなか気づかないものなのでございます。

そこで、考古学好きだった彼、金造さまは、「明石原人」に目をつけ、これこそキーワードにふさわしい!と「明石原人まつり」をやろう!と商店街に持ちかけ、企業も巻き込んで、プレイベントを開催なさったのでございます。

商店街を、ドンゴロス(麻袋)で作った原人衣装を来てパレードをして、カラオケ大会や、卵・魚・野菜などの特価販売と、大久保町では確かに話題になりました。

それでも、町内の人たちしか知らないイベントでございましたので、サラは、金造さまの目指す「まちおこし」にはもうちょっと…というきらいは感じておりました。

そこで、サラは、雑誌を持ってこられた金造さまに、「留学生たちの国際ブース」をご提案したのでございます。

当時は、今と違って円高でございましたので、おそらく海外から来られて日本で生活している留学生たちは困っていたと思われました。

それなら、ご自分の国の料理やグッズを販売してもらえば、目玉になって、町の外から人が来てくれますし、留学生たちはご自分の国を紹介できて、少しは収入もあって助かるのでは…と考えたのでございます。

もちろん、すご~く無責任に、案を出しただけで、後に自分がすることになるなどとは、爪の先ほども思っておりませんでございました。

そのあたり、金造さまは、海千山千…上手でございまして、それから何度もサラを「実行委員会」なるものにお誘いになられたのでございます。

「おっちゃんが言うてもええねんけど、ひょっとして違とったらあかんから、ちょっとだけ来てみんなに説明したってくれへんかな」

会議など面倒くさいので、何度も断っていたのでございますが、ある日、30分だけと金造さまがおっしゃるので…仕方なく出席いたしますと、50人くらいがずらっとテーブルを囲む会議室で、マイクを持った司会者さまに「ただいま、国際交流の担当者が来られました」と紹介されてしまったのでございます。

あの日の30分が、それからの30年の始まりでございました。

 

 

その後、金造さまが突如、市会議員に立候補する…というサプライズがあって、実行委員長が変わり、サラはいきなり国際交流担当から事務局長…それからミレニアムを迎えて、大蔵海岸で2年連続のミレニアムイベントの一部を原人まつりで担当することになり、またまた実行委員長が変わって、次は平成13年の歩道橋事故で中止になった明石市民まつりの再開に際してのNPO法人の事務局長に…

そんな年月に一区切りついて、Tree Topに戻ったのが2011年のことでございました。

そこから東日本の震災があり、江井ヶ島海岸まつりが立ち上がって、今の形となりました。

振り返ればあっという間の30年…でも、そりゃぁもう書ききれないくらいのいろんなことがあったのでございます。

 

でも、おかげさまで、明石原人まつりは、ここまで一度も事故を起こさず、オモシロイと皆さまに愛されて続けて来られました。

これは歴史でございます。

しかしながら、形のあるものは年月が経てば、老朽化いたします。

金造さまに無責任な提案をした日から、サラも30年 年を重ねましたので、もう一方通行を逆行する車を追いかけて走ることもできなくなりました。

なぜ10進法で考えるのか、よくわからない風習ではございますが、なんとかキリのいい30回までは…と頑張って、ここいらが潮時…大きな原人まつりは、一旦、終了する決断にいたりました。

 

そして、5月26日(日)、朝から夏のような晴天に恵まれ、ついにプチファイナルな第30回明石原人まつりを開催することができました。

 

 

原人まつりは、当初、明石原人か⁈と思われる腰骨の化石が発見された、大久保町西八木海岸をメイン会場にして開催されていたのでございますが、嬉しいことにだんだん人が増えて、手狭になってきたため、西八木海岸は前夜祭の位置づけにして、日中は、石が谷公園で開催することにいたしました。

第3回目くらいだったと思います。

乗馬協会が隣接しているので、まつりの中で、馬を引いての結婚式も行ったことがございます。

3回目以降、明石原人まつりはどんどん規模を広げていき、5回目にはサラが入って、国際交流ブースが並ぶようになり、実行委員長が変わると、JR大久保駅の南側ロータリーからショッピングモール前の道路を歩行者天国にして、3つ目の「街のまつり」会場にしたり…明石公園に出て行ったこともございました。

いずれにしても、石が谷公園は、常にメイン会場で、第27回まで約25年、サラはほぼ毎年、通ったのでございます。

近年は15000人くらいの来場者を数えて、手を打てるところはすべて駐車場に開放してもらっても、午前11時を過ぎると一番近い信号辺りまで渋滞が発生しておりました。

 

前日は 午後から夜にかけての「海のまつり」、当日は朝から夕方までの「山のまつり」…

規模が大きくなるにつれて、石が谷公園の設営は、前日からでないと間に合わなくなり、サラは、前日の朝から石が谷公園で業者さんの設営を手伝って、海のまつりが始まるころに、海岸に降りていくというのがルーティンとなりました。

最初は、業者さん以外はサラが一人でやっていたのでございますが、いつの程にか、見るに見かねて、音楽仲間が手伝いに来てくれるようになり、それがポツリポツリと増えて、現在では、原人まつりだけでなく、サラが関わるイベント全般の「文化」となっております。

ホントに嬉しいことでございます。

サモアの酋長が書いたと言われる「パパラギ」という本に、こんな意味の一節が出てきます。

「一人でやったら、成功したとき、一人だけが嬉しい。みんなでやったら、成功したとき、みんなで喜べる」

真理だと思います。

 

 

今回の明石原人まつりは、大きく分けて 4つのパーツで作られました。

ステージ、飲食ブース、クラフト作家さんたちのマルシェ、スポーツ…

これまでの原人まつりは、スポーツ以外のこれら全部をサラがまとめておりました。

どうしてそうなったのか…いつのまにか、成り行きでそうなってしまっていたのでございます。

でも、それは偶然と言えばそうなのですが、セレンディピティ…よい偶然を捕まえられる時ってあるんだと思います。

10年前、クラフト作家さんたちのマルシェをまとめたい、ってマルちゃんさまが現れ、去年、地元のフードブースをまとめたいって足立くんが現れ、今年は、江井ヶ島で小学生たちを対象にミニバスケットボールのチームをお世話しておられる川村さまが現れ…彼らの力を借りて、今年のサラは、ステージをまとめるだけでございました。

彼らはそれぞれ、信頼のおけるリーダーさまでございますので、ホントに頼もしく、安心してお任せすることができました。

 

音響は、長年の相棒 岡田さん…音については、絶対的なプロでございますので、ご出演のミュージシャンさま方には、ご満足いただけたと思います。

 

 

MCは、これまで司会者の卵さまにお願いしてまいりましたが、ここ数年のイベントは、サラとカバ子さまで間に合わせてまいりました。

今回も、サラの勝手なおしゃべりをカバ子さまがカバーするというシステムで、乗り切りました。

 

 

ステージは、かなり印象的なレオパルコ&エリーの原人ダンスからスタートし…

 

 

いつも設営や後片付けを手伝ってくれる仲良しのMOTOさまと サックス茂木ちゃんのBaby Steps と続き…

 

 

リーゼントで、汗をかきながら原人まつりののぼりを立ててくれたロッカー、シン

 

 

女性4人のアカペラグループ T-time

 

 

10年以上前から ずっと原人まつりを応援してくれている岡本ひでひとさま

 

 

黒いアッキーと白いシンのシン&アッキー

 

 

海のまつりには欠かせなかった沖縄エイサーのティダくくる

 

 

最初がファイナルになってしまったけど、高橋審さま

 

 

ノリのいいインストゥルメンタルで、沸かせてくれた Metabox Duo+さま

 

 

サラの心強い味方、スタッフ側主力メンバーは、楽しさ命のラッキーランドリーパックさま

 

 

サラも歌いました…東播雀P

 

 

子供たちに大人気のとどめの一発

 

 

最後は、元気よく飛び跳ねるBurning Dance Studioのキッズダンスで 締めくくりました。

 

 

さて、会場の様子は…と申しますと…

ステージエリアの正面から、体育館の入り口付近まで、大久保町江井ヶ島を拠点として集まる地元のフードブースオーナーさまたちが、地元食材にこだわって軒を連ねてくれました。
とりまとめてくれたのは、数年前から江井ヶ島を盛り上げよう!と、起業した足立さま。
昨年、ひょんなことから出会うこととなりました。
大変、頭のいい方で、センスもよく、何より前向きで、ものごとを面白がれる余裕をお持ちでございます。
彼のリーダーシップに賛同してくれる気持ちのいいお仲間が、皆さま、協力的にご参加くださり、それぞれに丁寧なご出店で、おまつりとしてもとても快適に進めることができました。
 
 
各店舗、ユニークなウリがあり、並んでいるヴィジュアルもおしゃれでございます。
 
 
これは、たまごサンドでございますが、この卵の厚み…
食感もよくて、おなかも満たされます。
 
 
カレー屋さんは、スパイスの効いたカレーをご提供くださり、パァーっと晴れたこの日の気分を一層盛り上げてくれました。
 
 
お昼過ぎ、ハンバーガー屋さんの前には、原人衣装で並ぶミニバスケットボールの子供たちの姿…
すご~く嬉しい風景でございました。
 
 
石が谷公園のレンガ通りには、いつものようにクラフト作家さんたちのマルシェ、クラフトまるしぇが並びました。
10周年…そんなに経ったのでございます。
最初は、一出店者だったマルちゃんさまが、「私、まとめられるかも…」と手を挙げてくださり、海岸まつりや原人まつりで…(おそらく原人まつりが最初だったと思います仕切ってくれるようにくれるようになりました。
それ以前は、サラが場所割もして、受付もして…だったので、もうすご~く楽になりました。
 
 
フリーマーケットと違って、最初からちゃんと販売できるレベルの作品を、創意工夫で仕上げてきてくれる作家さんたちのまるしぇは、並んでいるだけでウキウキしてくるような楽しさがあり、会場となる石が谷公園の管理者である体育館さまからも、喜ばれてまいりました。
 
 
開店と同時にウィンドウショッピング(って、言うのでしょうか?)のお客さま方もたくさん…
 
 
明石原人まりのシンボルでもある原人石器づくり体験は、始まった頃から明石文化博物館から稲原先生に来ていただいておりました。
西明石付近を流れる藤江川で、メノウの石器が見つかった時には、世界中の新聞が一面で取り上げましたが、稲原先生がその発見者…小さい頃に、西八木海岸で原人の腰骨らしい化石を発見した直良信夫博士に憧れて、考古学の道に進み、明石で「原人」を探求してきてこられた明石原人まつりの盟友でもございます。
四国で採れるサヌカイトという石で、矢じりをつくる石器づくり体験、時代は違いますが、古代って言うシバリで、勾玉づくり体験、そして、原人の時代の火起こし体験と、子供達にはいつも人気がございます。
 
 
体育館の第一競技場では、地元江井ヶ島で、小学生を対象にバスケットボールの面白さを広めておられる江井ヶ島ミニバスケットボールチームが、原人ミニバスケットボール大会を開催してくれました。
京都や岡山からのチームも参加して、全6チームでの大会…
午後からは、一般参加のフリースロー大会もございました。
 
 
代表者の川村さまは、なんとも元気のいい女性で、全員に原人衣装でのご協力を呼び掛けていただき、それを皆さまが本当に楽しんで実行してくださいました。
川村さまとは、音響の岡田さんが、なでしこバスケットボールの播磨イーグレッツの代表をなさっておられることからのご縁で…あれこれと紆余曲折の末の出会いでございました。
 
 
でも、意図していたわけではございませんでしたが、地元、江井ヶ島という海のキーワードで、食の足立さまやバスケットボールの川村さまと、繋がることができたのは、やはりセレンディピティ…感謝でございます。
 
 
大きな規模の明石原人まつりは、そんなわけで一旦、終了とさせていただきますが、おまつりというのは、無くても生きていけますが、あることで生きていくことが豊かになるものでございます。
そこに人が集い、楽しいことを共に創り上げていく…この人たちがみんな好きだ!って思えたら、明日、世界はもっとよくなる…って思えるのでございます。
 
 
人の笑っている顔って、本当に素敵でございます。
見ると、幸せが生まれます。
 
 
すこ~し小さくなりますが、明石原人まつりは、来年からも江井ヶ島海岸まつりと合体して、続けてまいります。
続けている間に、頼もしい後継者が突如現れて、よっしゃー!と言ってくれたら、また大きくなれるかもしれません。
 
 
お別れではございませんので、しんみりはいたしませんが、長い間、応援してくれて、支えてきてくれた皆さま、ここまでの感謝の気持ちをどうぞ受け取ってくださいませ。
 
100回、1000回、何度でも繰り返します。
明石原人まつりを、ここまで、愛してくれて、本当にありがとうございました!