NHKの新プロジェクトX「弱小タッグが世界を変えた~カメラ付き携帯 反骨の逆転劇~」の番組を見て | グラ山ギターのブログ

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毎週健康のために山登りをしています。低い山ばかりですが播磨の山々は岩山が多く景観がすばらしい所が多いです。山頂などで演奏しています。 井上陽水のカバーが多いです。
暑い時期は山登りは控えています。

NHKの番組では、あるアイデアとそれを実現する技術者をきっかけに、世界の通信機器に大きな影響を与えた話として紹介してます。しかし、このような大きな技術の進展の裏には、それ以前に苦労を重ねて新技術を切り開いてきた無名の技術者達も多くいたことも知って欲しい。また、終身雇用時代の新ビジネス開拓の事例も参考にしていただきたい。

―オーディオ事業から電話機へ(シャープ広島工場)―


シャープの社史にも記載していない、携帯電話開発をめぐる話をします。
シャープの広島工場に通信機器事業部が発足したきっかけは、本体であった音響システム事業部がオプトニカというブランドでステレオコンポや一体型のステレオ、ラジカセ、CDプレーヤなどの音響機器を製造してきたが、マニアの減少と共に売り上げが徐々に減少していた。工場も何ラインか閉鎖していき、事業部総動員で営業応援に出向したり、事業部の全員が危機感を持っていた。このままでは、広島工場から人がいなくなってしまう、地元採用の人もかなり多かったので、さらに危機感が強かったと思う。

仕事が無いことで困っていたところに、工場の活用ということで電話機のOEMの話が入ってきた。米国のGEからGEブランドで生産できないかとの依頼であった。当時は、八尾の電化機器事業部ですでに電話機を生産販売していた。しかしながら、OEMなので広島で生産することは問題なく、広島で電話機の製品設計検討を始めた。
 それまでは、オーディオばかり専門にしてきた人達ばかりなので、電話機の技術を理解できる人はいなかった。そこで、GEから入手した技術仕様書を、技術部、生産技術部、製造部、品質管理部の担当の人達が一緒になり、1文づつ読み解いていき、電話機の技術を習得していった。以前にCDプレーヤ開発の時に経験したのですが、一部の開発部門の少人数だけが新技術を保有しているだけでは、量産や多機種への展開はできなかった。その経験を活かし、最初から全部門参加で電話機技術の習得に励んだのです。
 OEMの話はうまくいかなかったが、せっかく技術を学んだのでシャープブランドの電話機を広島でも作ろういうことになった。シャープの中で2つの事業部で電話機を作るのはまずいのでは、という懸念はあったが、さすがシャープで、本社からは競争して生き残った事業部でやればいいということになった。
広島では早速、電話機の開発に取り組んだが、先行の電化機器事業部に対して、オーディオを培った高機能の作りこみの面で、多機能電話機の開発で伝統的な単機能の電話機より売り上げを伸ばすことができるようになった。その結果、八尾の電話機事業は広島の事業部にとりこまれることになった。

―ファックス事業を取り込め―
 これに味を占めた広島の事業部は、売り上げ目覚ましいファックスを製造していた郡山のシステム機器事業部から、OEMで遊んでいるラインでファクスを製造することに許可をいただいた。その結果、そこで取得したファックスの技術を深化させ広島がファックス事業の主体に成長させて(上杉さん)、郡山のファックス事業関係者を吸収してしまった。ファックス技術は電話機能だけでなく、広島のデジタル通信技術を向上させるきっかけともなった。

―親子コードレス電話の開発―
 この2つ出来事が、オーディオ以外のビジネスの道を開くきっかけとなった。ちょうど電話機の子機との通信で電波でつなぐ微弱コードレス技術の標準化が始まり、親子電話機を開発しようということになった。音響システム事業部では昔、無線レシーバーを開発して電波通信の技術を持っていた有馬さんとテープレコーダーやラジカセをやっていた辻村という人が主体となって、微弱コードレスの親子電話を開発した。しかし、量産販売までこぎつけたものの、微弱電波を扱うだけに、東広島のような田舎で使えても、電波雑音の多い都会では全く使い物にならなかった。結果は販売した製品は全数回収。ここでも、やはりシャープ、創業者の教えで失敗を次の成功に生かして挽回すればいいという寛大さがあった。微弱コードレスを開発した技術者メンバーは次世代の省電力コードレス電話の開発に取り組んだ。不安定な電波環境でいかに安定な接続を実現するか?種々のフィールドテストや微弱コードレスのクレームを通じて制御チャンネルと通話チャンネルをうまく切り替える通信プロトコルが完成し、実用的なコードレス電話が完成しました。
省電力コードレス電話は売上を伸ばし、NTTの眼にもとまり、OEMでNTTにも出荷するようになって、ようやく売り上げが年間100億円を超えるようになって、通信事業部として独立できるようになったのです。NTTへのOEMは2年ほどしてから品質問題で意見があわず、OEMの生産も打ち切られてしまいました。

―カメラ搭載携帯電話―
 再び通信事業部は事業部として成り立たない100億円以下の売り上げに落ち込んでしまいます。しかしこれで終わらないのがシャープ魂、コードレス電話で培った通信技術を元に、将来伸びそうだった携帯電話事業に参入開始することができました。最初は弱小携帯電話機器メーカーで細々とやっていましたが、カメラ搭載という新しい武器で大きく事業として成長させたのです。(これが新プロジェクトXの話)

―オーディオ機器のEMCの経験―
カメラを搭載するに際して、大きな課題で電波障害とスペースの問題がありましたが、これらについても、シャープには種々の技術蓄積があり、一石二鳥というわけではありません。
広島の音響システム事業部は、音響商品の輸出に際してヨーロッパから強力な輸入規制を受けます。今では当たり前になったEMC規制です。EMC規制には他機器への妨害EMIと電波による影響EMSがありますが、音響システム事業本部では、音響機器でも電波による妨害や内臓AM.FMチューナーへの妨害など多くの経験を通じて、シャープ内での独自EMC規格を作り上げたり、その対策手法にも多くのノウハウを積み重ねていましたので、プロジェクトXで解説していたような電波対策にも大いに役立ったかと思います。

漁業無線でテープ巻き取りがストップしたテープデッキ

次に、なぜ小型のCCDカメラが簡単に入手できたのか、これにも歴史があるのです。

―映像処理のデジタル化(私事)―
私は広島でPCMデコーダー、CDプレーヤー、DAT、MDと体験するうちに、オーディオのデジタル化はほぼ終ってしまった。次はアナログ映像処理をすべてデジタル化したいということで、無理やり上司に掛け合い、天理の研究所に異動させてもらいました(1989)。当時はビデオレコーダーはアナログでばかでかい機器で市場シェアも僅か1~2%。私は映像のデジタル信号処理の開発をやりますと宣言して、部下に新人1人をつけてもらいましたが、予算は200万円/年しかもらえず、すべて手を動かして開発したのです。会社からは全く期待されない開発でした。PCに20万円ほど、1フームごとアナログ記録できる光ディスクレコーダー、シャープで開発したTaichiという画像処理装置を開発ツールとして購入し、残りはユニバーサル基板とFPGA20ヶを手配線でくみ上げて、リアルタイム処理が可能な試作機を作成しました。PCと光ディスクの同期回路も手作り自作をしました。オートフォーカスオートアイリス、手振れ補正、ノイズ低減などPCでシミュレーションしては光ディスクに書き込み再生してアルゴリズムの効果を確認するなどで行いました。シミュレーションで確立したアルゴリズムを、ロジック回路に展開してFPGAに実装しリアルタイムに確認します(1990年の1年間で開発完)。
 また、このデジタル映像技術が完成すると栃木のビデオレコーダー担当の技術者を交えて、実際のLSI化へのアレンジもおこないました。また実用化に当たっては低消費電力化が大きな課題(当初3W)だったので、1/10に削減する手法も開発し、LSI化に反映しました。
映像のデジタル化技術は1991年の3月にはLSIベースで開発が完了しましたが、搭載するビデオカメラが社内品に無くしばらく放置されていました。

https://www.kwansei-ac.jp/iba/entre/library/pdf/l_02_03.pdf
ケース『現代企業家の戦略的役割』の製作 より


―CCDカメラの自社開発―
液晶ビューカムのコンセプトが完成した時に、このLSIが小型で省電力で電池寿命も実用的ということで、採用されることになったのです。一方、CCDはファクス向けに1次元のものを社内で開発していたので、それを元に2次元CCDを液晶ビューカム用に新開発したのです。液晶ビューカムが大ヒットしたので、社内でも半導体事業部で映像用CCDを拡充開発しようという動きになった

のです。栃木でビューカムのカメラ開発に携わっていた野村さんという方が半導体事業部に異動され、シャープ製の2次元CCDの製品化開発が進んだのです。どんどん小型化を進めていく中で、携帯電話にも搭載できるCCDカメラが実現したのです。

―新規ビジネスはそれまでの積み重ねが必要―
このように、カメラを携帯電話に搭載するという単純なアイデアだけでは、ビジネスにつなげることはできないのです。それまで培ってきた種々の分野のノウハウや技術の上に新しい技術を取り込んで初めてビジネスに繋げられるのです。

―終身雇用の時代―
このように、終身雇用の時代には、事業が縮小してきても、従業員を養っていくために、経営者も従業員も一緒になって、どんな未経験な仕事でも取ってくる。また、時代が必要とする新しい技術も取り込み、部門関係なく、週1回2時間の時間を割き、有志で勉強会をしたり、土曜技術大学と称して、無償で新技術の習得を事業本部全体で取り組んだりしたものです。

―人材派遣業拡大と技術の衰退―
シャープも大きくなり、私が液晶事業本部に異動したころには、人材派遣の人が多く入ってくるようになります。しかし、多種の液晶製品を開発するには、社内からの技術者を集めただけでは不足していたので、液晶事業本部も手っ取り早い技術者増強として人材派遣を利用したのです。
その結果、技術担当者でも派遣の人に仕事を分配したり設計、試作をさせたりするうちに、管理職のような仕事になってしまいました。技術や職人的なものはシャープの担当者はあまり経験できなくなり、ひどい場合には派遣の特定の人に依頼しないと仕事がこなせなくなってきます。
こうなると、技術担当者のスキルは上がらない、技術的な課題が判らない、解決方法が判らない、とどんどん現状維持が精いっぱいの状態になります。キーマンの派遣の人が交代していなくなると途端に開発設計が進まなくなるという悪循環でした。
確かに、人材派遣をうまく使うと、いつでも増員・減員ができますので、短期的な利益を追う会社や管理職の人にとっては楽であるが、終身雇用の時代のような危機感は経営者も従業員も共有しなくなってしまいました。

―人材派遣業がシャープに及ぼした影響ー
なので、当時の社長も「液晶の次は液晶」という短期的な指針しか示せなかったのでしょう。
この人材派遣のデメリットは、日本の大企業はどこも似たような経験をし、新しい技術やビジネスを生み出せなくなった大きな要因だと思います。その結果、堺の液晶工場がシャープ全体の足を引っ張り、新しい技術やビジネスを生み出せないまま倒産に追い込まれました。

―人材派遣業拡大が日本に及ぼした功罪―
2000年以前は日雇い労働者を集めて、需要の変動の激しい土木事業をささえるために、ピンハネ組織として暴力団が取り仕切っていた派遣業がその起源です。派遣業はピンハネがしやすいので、竹中平蔵が欧米のような労働の自由化のスローガンのもとに他の業種に派遣業ができるようにしてしまったのです。人材派遣事業は、大きく条件が緩和され、立法化の後にパソナに等の人材派遣会社が大儲けをしたのです。伝統的な日本社会を壊して!人材派遣業の自由化と共に日本の産業は衰退し、労働者の実質賃金もこの30年間下落していったのです。

30年近く下がり続ける実質賃金…物価高に負けない賃上げは実現できるか 労使の代表者に聞いた:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)
日本の社会は、同じ会社の人でも皆仲間、助け合ってビジネスをしてその成果で家族を養っていくというものでした。そこに人のつながりの薄い欧米式の就労方式を持ち込んだのが、大きな間違いだと思います。何とか、この状況を打破し、仲間同士が助け合って新しいビジネスを成長させて安心して家族が生活できる社会に戻せないでしょうか?若い政治家の皆さん知恵を出してこの日本の経済状況から脱出する政策を実現してください。

―あとがき―
私の記憶の範囲で記事を書いてみましたが、元シャープの関係者で誤りがある場所が気付けば指摘ください。シャープ史にも書いていない話なので、誤りは訂正したいと思います。
私は、定年数年前に会社から希望退職のメンバーに選定されて退職しました。当時は家族介護のために、ちょくちょく休職していました。他の人より実際の成果を生み出し続けていたはずなのですが、総務の眼には希望退職の条件に適ってしまったようです。しかたなく、退職後は自営業者として活動しましたが、営業から契約、開発、経理業務も一人でやらなければならなかったのです。しかしながら、シャープ在籍時代に、いつかは独立できるように、人が嫌がる技術以外の仕事でもできるだけ請け負うようにしていたので、大変役に立ちました。