理不尽を課すことは教育に必要なのか | フクロウのひとりごと

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愛知県在住のトロンボーン吹き、作編曲家、吹奏楽指導者。
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理不尽を課すこと、理不尽への耐性を養うことは、教育において必要なことだと思われますか。世の中には理不尽なことがたくさんある、それに耐えうるように育てていくことは、はたしてほんとうに必要なのでしょうか。

こんばんは。
トロンボーン吹きで作編曲家、吹奏楽指導者の福見吉朗です。

 


 

 

  理不尽を課す

 

こんなことを言われる先生がおられます。
「世の中には理不尽なことがたくさんある。だからそれに耐えられるように理不尽を課す」…
みなさんはどう思われますか。必要なことだと思われますか。
教育とはそういうものなのでしょうか。
たしかに、世の中には理不尽なことがあります。
今般の感染症下でも、きっと痛感された通りです。
でも、それに耐える人間を育てることが、はたして教育なのでしょうか。
どう思われますか。
 

 

  アンケート

 

ツイッターでアンケートしてみました。



有効投票数73票。
約半数近くが、『不要だ』との回答でした。
一方、『必要だ』は2割に届きません。
これをもって結論とすることは出来ないでしょうけど、参考までに掲載しておきます。
さて、では、理不尽って何でしょうか。
 

 

  いろいろな理不尽

 

理不尽といってもいろいろなものがありますよね。
べつに社会に出ずとも、理不尽だと思えるようなことはいくらでもあります。たとえば…
人と同じ努力をしても、同じ結果は得られない。得られるとは限らないということ。
これなどは歴然とした事実であり、避けようがないことです。
そして、場合によっては理不尽とも受け取られるようなものですよね。
また、各家庭だってそれぞれ違う。
裕福な家もあれば、あまりそうではない家庭もある。
そういう意味では世の中は決して、平等には出来ていないのです。

一方で、作為的な理不尽と言えるようなものって、あると思うのです。
それは、わざと作り出した理不尽です。たとえば…
先生が生徒にわざと無理難題をふっかけて、「理不尽への耐性を…」などと言っている場合です。
いわば、『偽りの理不尽』と言えるようなものです。
さて、理不尽って、教育に必要なのでしょうか。
 

 

  理不尽は必要か

 

上に書いた、避けようのない理不尽、これは必要なものだと思うのです。
避けていくことは出来ないものですし、また、
それを避けたり逃げたりしてしまうことも、よくないように思われます。
あらゆる面で恵まれている人など、世の中にはきっといません。
なにかに秀でていても、別のなにかでは苦労しているのかもしれない。
人はひとりひとり、みんな違います。個性がありますから。
ただ、後者の『作為的な理不尽』、これは必要ありません。
浅はかな作為など、なんのプラスにもならないように思います。
嘘や偽りは、なにひとつ生み出しません。
真実のみが、人を成長させるのだと思うのです。
 

 

  世の中を変えていける…

 

世の中にもし、言われのない理不尽がたくさんあるのであれば、
それに耐えうる耐性を持った人間を育てることが教育なのではなく、
そんな世の中を変えていってくれるような人間を育てることこそが、教育なのだと思います。
そして、受け止めるべき理不尽からは逃げない、そんな強さを持った人間を育てること…
(だから運動会で順位をつけないなんていうのは、まやかしでしかないと思うのですよね…)
そんなふうにあるべきだと思うのです。
偽りではなく、真の強さを持った人を。

さて、あなたは教育に理不尽、必要だと思われますか。