合奏から出てくる音楽は誰の音楽なのか | フクロウのひとりごと

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愛知県在住のトロンボーン吹き、作編曲家、吹奏楽指導者。
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たとえば学校吹奏楽において、『ひとりひとりの主体的な表現を』と言われることがあります。さて、

合奏から出てくる音楽って一体誰の音楽なのでしょう。ひとりひとりの表現の結果なのでしょうか。

 

こんばんは。

トロンボーン吹きで作編曲家、吹奏楽指導者の福見吉朗です。

 

 

 

  主体的な表現

 

学校吹奏楽において、『ひとりひとりの主体的な表現を』と言われることがあります。

合奏音楽って、ひとりひとりの主体的な表現の結果、なのでしょうか。

ひとりひとりが主体的に表現した音楽、演奏が、音になるのでしょうか。

合奏って、吹奏楽って、誰の音楽が出てくるものなのでしょうか。

さて、みなさんは、どう思われますか。

 

 

  指揮者の音楽

 

合奏から出てくる音楽は、作曲者、編曲者の音楽です。当然ですよね。

その上で、指揮者がいる限りは、『指揮者の音楽』だと思います。

(作曲家の意図を指揮者の感性をとおして読み取った結果としての音楽)

また、そうあるべきだとも思うのです。だから、

どんな立場であれ、指揮者である限りは、音楽的なイメージを持って合奏の前に立つべきです。

でなければ、指揮者の意味がありません。

でもしかし、だからといって…

 

 

  指揮者だけの音楽ではなく

 

合奏から出てくる音楽は指揮者の音楽だと書きました。が、

でも決して、指揮者だけの音楽ではないと思います。

合奏から発せられる音楽、それは、

指揮者の動きや存在、その発するものを、ひとりひとりが感じ取り紡いだ音が合わさったものです。

その合奏に参加する全員のイマジネーションが働いた結果の音であるのです。

もちろんそのイマジネーション、感性は、指揮者に対してだけ発揮されるのではなく、

合奏の音やまわりの動き、他の奏者の意思に対しても働くものであるのは当然のことです。

だから、その合奏ひとりひとりの意思が働いた結果としての音楽が出てくるのです。

 

 

  イマジネーション

 

たとえば指揮者が合奏に対してなにかを働きかけるとき、

「こうしてください」と言葉で伝えるよりも、動き、指揮で伝えた方が、より音楽的な演奏になる、

そんなふうに思います。でもそれはもしかしたらきっと、

ひとりひとりのイマジネーションが働く余地がより多いから、なのかもしれません。

だから指揮者、指導者は、こうしなさいああしなさいと言葉でばかり言ったり、

ましてや奏者(生徒)を奴隷のように扱うのではなく、

ひとりひとりのイマジネーションを信じて、それをより引き出すように向き合うべきだと思うのです。

 

 

  指揮者、指導者

 

生徒ひとりひとりの主体的な表現を実現したい…

そのために、指揮者が音楽的な意思を出さないようにふるまうのは間違いだと、ぼくは思います。

指揮者は常に音楽的な意思を持って『振る』べきだと思います。

HDのクリック音に任せて合奏を監視してダメ出ししているのでは、ダメだと思うのです。

指揮は飾りではないし、奏者(生徒)はロボットではありません。

(そんなふうに考えている指導者もいるようですが…)

指揮者は、つねに振っていなければならないと思います。意思を持って。

たとえクリック音を鳴らすにしても、です。

 

 

  ひとりひとりの主体的な…

 

もし、純粋に、『ひとりひとりの主体的な表現』を100%実現したいのであれば、

楽曲も指定せず楽譜も持たず、ひとりで楽器を持ってステージに出て行かせて、

「さあ何かやってみなさい」と言うよりほかにないと思います。極論ですが…。

でも、そうではない、普通の合奏形態であったとしても、ここまで書いてきたように、

ひとりひとりの意思がはたらく余地は十分にあるし、また、そうあるべきだと思うのです。

でなければ、ひとりひとりを単なるロボットのように扱った結果の合奏であったのなら、

たとえばそれはせいぜい、ダシも取らずにつくったお味噌汁のようなものだと思うのです。

 

合奏から出てくる音楽は、指揮者の音楽です。

でも、指揮者だけの音楽ではない、全員の意思とイマジネーションが合わさった音楽です。

だからこそ、奥深いのだと思います。

なんだか書いていて難しくなってしまいましたが、伝わりますでしょうか。

 

さて、みなさんは、どう思われますか。