春寒し達磨大師が目を見張る

「雲の峰」2023年4月号青葉集掲載。

「春寒し」とは立春を過ぎてからの寒さの事を指す。似たような気後に「余寒」があるが、「春寒し」は春になったのにまだ寒いという感覚。「余寒」は寒が明けてもまだ寒いという感覚で、どちらかと言うと「春寒し」の方が春になった気分が強い時に使うとされている。未だに使い方に悩む季語だ。そんな寒明けの2月、かつて亡父が歩いたコースを辿って京都を歩いた。出町柳から相国寺。そこから堀川通を北進して北大路通へ。大徳寺に立ち寄り、船岡山へ。そこから西大路通を南進してわら天神、平野神社から等持院まで歩いた。その等持院にあったのがこの衝立。臨済宗天龍寺派管長 関牧翁師作の祖師像。禅宗の開祖、達磨大師像だ。眼光鋭い姿を堂々と見せていて、暑い日も寒い日も全く動じない。そんな佇まいを見せている。そんな姿に惹かれて詠んだ句。ちなみに、元句は「春寒し達磨大師の目を見張る」だったが、「の」は切れ字として用いられるため、中七で句が途切れてしまう事を懸念したのか、主宰によって校正された。

達磨大師の言葉に「不識」というものがある。すなわち、自分は何者でもないという事。自分には氏名があり、職業があり、こんな趣味を持っていて、こんな性格だという事は答えられるが、それは自分の一面に過ぎない。自分自身はこんな人間だと思っているかもしれないが、人から見れば違うという事がよくある。そうして客観的に自分を見た人も、自分の全てを理解している訳ではない。そうなると、本当の自分とは何なのか、わからなくなる。禅宗では、ならば己を捨てて、空っぽになって他人を受け入れよと説く。そうする事によって、人が見えて、自分も見えてくるのかもしれない。なかなか難しい世界だ。

 

↓コチラも併せてご覧ください♪↓

コダマヒデキ~音楽と俳句の部屋~

 

俳句を楽しみませんか?

俳句結社「雲の峰」

 

 

人気ブログランキングでフォロー