彼の流れ浄土へ行くか秋海棠
今日は京都市交響楽団のファミリー向けコンサートを聴きに京都コンサートホールへ。同楽団首席トロンボーン奏者で、高校時代の同期の岡本哲氏がコンチェルトを演奏するというので出向いた。早めに家を出て午前中に到着。時間があったので、隣の植物園に立ち寄った。そこで出会った「シュウカイドウ」という花。園内の小川に水車小屋があって、そのすぐ傍に咲いていた。実に涼しそう。歳時記でこの花を調べてみると、「湿地を好み庭園などに栽培されるが、野生化もしている(中略)茎から紅色の節と花柄が垂れその先に俯きがちに淡紅色の花を付ける。」とある。そして例句の中に「秋海棠誰もが母を亡くしゆく(岡崎光魚)」「断腸花妻の死ははや遠きこと(石塚八束)」と、死を詠んだ句が2句あった。そんなイメージなのか。そうして見てみると、人工的に作られたはずの流れが、亡き両親のいる浄土へ流れているように見えてしまった。眩いばかりの赤い花は生きている証。そして人は別れを経験するという事実。その対比が見えた気がして詠んだ句。
どうしても気になったので、帰宅後ネットで花言葉を調べてみた。それによると、「片想い、恋の悩み、未熟、自然を愛す」と、一見死とは関わりのなさそうな言葉が並ぶ。広い意味で言えば、別れとも取れない事はない。ネットで例句を色々調べると、恋の句もあれば写生句もある。何も死を司る花でも何でもなかったのだ。しかし、そういう句を目にしただけで、そんなイメージで見てしまう。人間の目と心というものは、実に何かに影響されやすい。そんな事を思い知らされた花に、今日は出会った。
↓過去の作品はコチラ↓