否といふ言葉の重みうそ寒し
いつの世にも、何かと世間を賑わす問題が発生し、それに対する賛否両論の意見が真っ向から対立するという図式が成り立ってきた。しかし最近のネット社会では、まず片方の意見が発せられ、それに迎合する勢力が一気呵成に広がる。意を唱える者の声はかき消されるという図式に変わってきた。朝晩気温が下がってきたこの時期、新聞やネットを見てみると、異を唱える者の意見は確かに載っている。そこでつくづく思う。大勢に対して異を唱えるという事は、この朝晩の気温を上げるぐらいの体力と熱量が必要なのだと。「うそ寒し」という季語に、そうした熱量を託した句。
双方の意見を実際に読んでみると、それなりの論客が発している言葉という事もあるが、一定の側面で正確な事実に基づいて論評している。結局はどうやって言いくるめるかと言ってしまえばそれまでだが、こうして双方の筋の通った意見が並立しているという事は、今はまだ健全な世の中と言っていいのかもしれない。問題は、そうした意見を受ける私たち。事の真実を正確に知らないまま、大波に乗ってしまっているという人が少なくないのではないか。先日夜中目が覚めてしまって、テレビを点けると、太平洋戦争中のインパール作戦の軍議の実態を振り返っていた。それは、異を唱えると「卑怯者!大和魂はあるのか!」と罵倒される世界。今の世の中でそこまで過激には言わないが、長いものに巻かれている大多数の勢力によって、反対意見が異端視され、敵視されるという世界になってはいけない。まずは事の真実を正確に知って、双方の意見を正確に理解する事が大切であろう。
かく言う私もエラそうなことは全然言えない。どちらかというと大衆に迎合されやすい、非常時の駒にされやすい人間なのかもしれない。気を付けねば。
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