読書 感情的にならない生き方 名取芳彦(なとりほうげん) 詳細 | 怠け者のつぶやき

怠け者のつぶやき

今まで勉強してこなかった怠け者が
今更だけど本でも読もうか、ってことで色々と
本を読んだりニュースを気にしたりしてつぶやいてます。

○詳細

面白かった言葉などまとめ

・仕事も人間関係も、「結局これだ」と意味を一つに限定する事はできないのに、自分勝手に意味を限定し、それにこだわるので、反応も限られたものになる。

・私達には4つの精神的な欲求がある。「褒められたい」「愛されたい」「人の役に立ちたい」 「認められたい」

・小才は、縁に出会って縁に気付かず、中才は、縁に気付いて縁を活かさず、大才は、袖すりあった縁をも活かす。良い縁に巡り合えないと思っている人は、どこかに自分に好都合な縁があると勘違いしている。縁そのものに言いも悪いもない。

・古代ローマの政治家・哲学者のキケロは、「何人も誤らないものはいない。けれどもその誤りに固執するものは愚人である」という言葉を残した。過ちに固執せずに「申し訳なかった」と言えば落ちるのは一段で済む。素直に謝れば、周りも「これ以上責めない様にしよう」と考える可能性がある。

・般若心経の後半に、「(菩薩達は空と言う大原則を見抜く知恵を得て心が自由に成り、)事実と反した見方や、夢想する事から離れました」と書かれる”遠離一切顛倒夢想”(おんりいっさいてんどうむそう)の句がある。

・仏教では「自分の都合を減らしなさい」と説く。1Lの容器ではなく、最初から500mlの容器にすれば良い。都合が少なければ、都合が叶い、幸せになれる可能性は高くなる。

・仏教では執着を戒める。その理由は2つ。1つは、全てはめまぐるしく入れ替わる因と縁によって変化してしまうので、執着してもアタフタ、オロオオするばかり。心が穏やかになれない。もう一つは執着と失う怖さは表裏一体なので、やはり心穏やかでいられなくなるからである。全ては諸行無常である。

・いつの時代にも聖人はいるし、いかなる国にも賢者はいるものだ。それを見出して師と仰ぐ者は追うとなり、友として迎える物は覇者となるという。もとより私はまだ至らぬ身だ。ところが先ほどの会議では、その私の考えにも及ばぬものばかりではないか。私はこの国の将来が心配になったのだ。

・感情の波が経つのは、外からの刺激が原因だが、波を立てているのはほかならぬ自分。波を鎮めるのも自分。慰められたりして怒りが収まる場合もあるが、治めたのは結果的に自分の力である。

・イライラする事をどう考えれば、「当たり前」と思えるだろうかと考えた。結果、些細な事でイライラする事が減った。本が読みづらくてイライラするようであれば、「筆者の文章が下手だから読みづらいのは当たり前」と思えば良い。そういうものだというクセを付ける。

・失敗した事はやり直せない。きっちりと謝り、出来る限りの事後処理を行う事。②やれるだけの事をやれば、立ち直れない気持ちが楽になり、③自分の失敗に対する腹が立つのであれば、その失敗を終わったことだとして納得するしかない。

・仏教では蓮の花が大切にされている。泥水の中でも綺麗に避ける花は、不公平な社会の中でも、人生をきれいに咲かせる事を象徴している様であるからである。蓮はつぼみの頃から既に実がある。これは、人間にも必ず何か素晴らしい何かが収められている事を象徴している様でもある。

・ネズミが牛を見て小さいと嘆き、ウシはトラを見てキバがないと力を落とし、トラはウサギを見て耳が短いとガッカリします。ウサギはタツと比べて鱗がないと悔しがり、タツはヘビを見て冬眠出来ぬと落胆し、ヘビはウマと比べてまぶたがないと落ち込み、ウマはヒツジを見て寒いと凍え、ヒツジはサルを見て気に登れないと滅入る。サルはトリを見て飛べないと意気消沈し、トリはイヌを見ておっぱいを飲んで大きく成るなんてうらやましいと思い、イヌはイノシシを見てかわいらしい瓜坊と呼ばれる幼少期が内事を不満に思い、イノシシはネズミを見て鍋料理になるわが身を呪うというありさま。

・仏教の四摂(ししょう)。悟りへ導くために備えておくべき徳目。

 ①見返りを求めない「布施(ふせ)」。②優しい言葉を使う「愛語(あいご)」③人のためにやる「利行 (りぎょう)」④相手の立場に立って行動する「同事(どうじ)」

 4つの徳を備えている人間には人が集まるが、人を集める為に徳を備える事はできない。見返りを求める布施に反するからである。

・チューダ・パンタカ(周利槃特 しゅうりはんどく)はお釈迦様の弟子の一人。物を覚えられなかったので、お釈迦様から、「塵を払え、垢を除け」と言われ、それだけを行っていると、彼の心の塵も払われ、他の人達の蔑んでいた心の塵垢もいつの間にか除かれていった。天才バカボンのレレレのおじさんのモデルとも言われる。彼が埋葬された墓にみょうがが生えた事から、日本では茗荷を食べると物覚えが悪くなると言われる。

 

○感想

  仏教の住職から受ける言葉はやはり含蓄があると感じる。心を穏やかにする修業を積んできたからなのであろう。テレビでも住職に話を聞く番組がやっていたが、それを見ているのに近い感覚なのかもしれない。

  自分の中で感情として最も的になるのは、「イライラする」感情をどうコントロールするかであった。イライラしてケンカをする事は、自分にとっても妻にとってもその日が台無しになった様な気分になる。そして、これに対してこの本は一定の解答を出してくれていると感じる。自分の都合で考えない事、相手の考え方を限定しない事、棒ほど願って針ほど叶う、と言うのが当たり前であると言う事など、人生は思い通りに行かない事を受け入れる事が一番の対策であるという事である事に改めて気付かされた。気付いたと言うよりは、そのように訓練しなければいけないと言う事を納得したと言う方が正しいかもしれない。

  自分が望む物を減らすと言う考えも、あまりしてこなかったと思う。これは最近で言うミニマルの考え方と似ているとは思うのだが、これが良いと考えた事はないので、一つのきっかけを与えてくれている様な気がする。これを受けて考えてみた時、自分はやはり欲求には素直に生きていきたいと思ったのも事実である。人の事を妬んだりするし、不安にだってなってしまう。しかしこのような感情については、自然な事であると考える方が自分には納得できると言う事が分かった。これらの感情がなくなってしまえば、自分に対する不満が減ってしまう。不満とは成長の機会であると言う事を忘れないようにしたい。不満を克服できた時、自分は一歩上のステージに上がる事ができる。不安にたいして努力をし、解消されれば一つ自分を認める事ができる。嫌な感情とも付き合い方を考える事で、幸せへと繋がる物であると、改めて思う事ができた本であったと思う。

  このような感情を減らすためには、穏やかな気持ちになる事が重要である事もまた重要な様である。あるがままを受け入れ、時間をゆったりと過ごす事が、感情を落ち着け、焦っていた時よりも充実した気持ちになれるように感じた。