心理学入門⑥ 第8章 心は探求されてきたか:心理学の歴史 サトウテツヤ | 怠け者のつぶやき

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8章では、心理学の歴史について紹介している。歴史を知るのは現在を知るための出もある。心理学は古くはギリシャ時代からあったが、学範(ディシプリン)として始まったのが19世紀からと他の学問に比べ新しい。哲学が魂から感覚・知覚へと問題を変容して行ったのは近代から中世にかけてである。17世紀末には、「立方体と球体を触覚で区別できる生まれつき目が見えない人が、成人になって目が見えるようになったら、見ただけで区別ができるか」という問い(モリヌークス問題)が現れ、区別できるとする理性主義と、できないとする経験主義の間で論争が巻き起こる。その後開眼手術が確立されると、この件は経験論が正しい事が分かる。

19世紀になると、ウェーバーやフェヒナーが知覚の問題を科学的に実証する方法を整備し始める。ここで被験者の回答を系統的に分析する、という心理学の基本スタイルが確立される。同じ様に心理学を体系化したのがウィルヘルム・ヴントである。ヴントは、「生理学的心理学綱要」で名声を得、チューリッヒ大学で教授職を得るようになった。その後、実験室が制度として認められたのが1869年、この年が心理学の始まりと言われている。ヴントは個人心理学と民族心理学(今でいう文化心理学)を研究していた。

それぞれの分野で見て行くと臨床心理学は、正常でない精神状態の人間を治療するという考えの元に研究が進んだが、元々精神が正常でないものは処罰の対象であった。魔女狩り等の例もある。臨床心理学はフランスのシャルコーによって研究がはじめられ、彼の弟子であるビネやフロイトがその後発展をさせて行く。発達心理学では、経験論のジョン・ロック、生得的に子供は善であるというフランスのルソー、進化論のダーウィン等が子供の発達について考えた事から発展していく。アメリカでもヴントの下で学んだホールや、スイスのピアジェ、ロシアのヴィゴツキーなどが発達理論を組み立てていく。社会心理学では民族心理学がドイツで、集合心理学がフランスで発展していく。アメリカでのヴントと並ぶ心理学の父であるジェームズが主体から見た自己と、客体として見られる自己を区別していたなど重要な概念が生まれる。

 19世紀のアメリカでもジェームズからワトソンへと受け継がれていき、行動主義を主流に広がりを見せる。その後もティチナーやウィトマーがヴントの下で指導を受け、ウィトマーはアメリカに心理学を大学院の単位として認められる事に成功する。

 その後心理学に大きな影響をもたらしたのは、フロイトの精神分析である。精神分析では、意識の区分(意識-前意識-無意識)と自我(超自我-自我-エス)に注目し、自我防衛機について様々な機能を提案している。フロイトの弟子にはアドラーやユングが独自の理論を展開して行き、またフロイトの流れを組む新フロイト派という研究者も現れる。人間が動きや形をどの様に知覚しているか、という事に関してはウェルトハイマーのゲシュタルト心理学等で発展して行くこととなる。

 アメリカの行動主義はその後も進んでいき、ワトソンが行動主義宣言を1913年に発表する。有名なアルバート坊やの実験や、刺激(S)と反応(R)によるS-R行動主義、トールマンによる媒介変数を用いた認知学、新行動主義のスキナーなど様々な研究がおこなわれる。これらは、多くの精神的な問題が行動療法により改善できるという考えに基づいて行われた。 

第二次世界大戦が終わるころには心理学の中心はドイツからアメリカに移り、臨床心理学のマズローやロジャーズが現れる。また社会心理学の実験としてアイヒマン実験や、監獄の看守役をやらせると、役割に応じて適応し、時には過剰反応を起こすというジンバルドーの監獄実験等も行われるようになる。ハイダーのバランス理論やフェスティンガーの認知的不協和理論も発表される。認知心理学でも、ブルーナーは人によって物の見え方や意味合いが異なるというニュールック理論を、ミラーはマジカルナンバー7を、バンデューラは人や類人猿などは観察学習が可能な事を発表する。

日本では、元良勇次郎がアメリカでホールに学んだ心理学を日本へ持ち込む。教え子には、 松本亦太郎(またろう)や福来友吉がいる。福来は透視、念写が可能であると唱えて物議を醸す。1927年には日本心理学会を設立されたが太平洋戦争で停滞する。しかし戦後にまた発展して行き、1964年までにいくつかの学会が成立されるなど地位を確立する。今では2016年に第31回国際心理学会を招致するなど国際的な活動も行っている。