日本の近代(下) 第4章 昭和デモクラシーを担った陸軍と言う政治集団 | 怠け者のつぶやき

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 1925年、大正天皇が崩御され昭和が始まるとすぐに、国体問題という言葉が出始める。朴烈と金子文子という内縁の夫婦が社会主義運動により捕まった際、何も話さない朴烈のために彼の希望を聞いていた政府に対して野党が発した言葉である。彼らは大逆を起こした人間になにをしているのか、との追及であった。しかもこの言葉は、天皇を本当に尊敬しての言葉ではなかった。
 その後ロンドン軍縮会議において、首相の浜口雄幸は軍の反対を押し切り条約に調印し、天皇の統帥権干犯だとして大問題へ発展する。さらにはこの時に「人民の名において」との条文を加えた事が問題となる。これは後々天皇機関説の問題へもつながっていく。
 張作霖爆殺後、息子の張学良らは日本および日本企業を弾圧していた。このころ幣原は対中協調策を取ろうとして日清条約を破棄するのだが、中国は対日強硬策を進めていたこともあって、満州にいる日本人は不満を抱えていた。それに対して不安をもっていた関東軍は行動に出る。満州事変の始まりである。1931年9月18日に柳条湖近くで南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国の破壊工作と偽って張学良らのいる北大営を襲う。わずか600名の兵で1万5000人の張学良軍に圧勝した関東軍であったが、翌日若槻礼次郎政府は不拡大路線を発表する。ところが張作霖爆殺の時のように押さえ込まれて満州の権益を失うことを恐れた石原莞爾は、天皇の統帥権干犯を犯すことし承知で政府を無視して吉林に進出、朝鮮総統府の林銑十郎も奉天に進駐する。これによって欧米列強は日本に対する不信感を募らせていく。
 この時代は、日本国内でも激動の時代であった。1930年には浜口雄幸が東京駅で凶弾に倒れ、その後も軍部が日本の改造を行おうとする動きが続く。桜会クーデターを起こそうとした3月事件、5月事件はどちらも未遂に終わったが、血盟団事件で井上準之助前蔵相等が殺されてしまい、五・一五事件によるクーデターでは実行犯を捕まえるも話しを聞こうとした犬養毅までも殺されてしまう。
 五・一五事件の様な大きな事件を起こしたのだが、「疲弊の極みにある農村を救って健全な軍隊をつくらねばならぬ」という大義名分は国民の共感を生んだ。この頃の政治家は、政治のことしか知らず、 役人は役人の事しかし知らず、財界人は財界の事しか知らなかった中で、徴兵制度のあった軍部(海軍は技術習得に時間がかかる事から志願制であった)のみが民衆に近い存在であった事から、普通選挙に移行した日本で発言力を高めて行く。

第5章 中国との戦争に終着点はあったのか
 1932年までに満州のほぼ全域を手中にした関東軍は、満州国建国を目指すが政府の反対にあい、他に目を向けさせる計画を企てる。その結果1932年1月18日、上海で買収した中国人に日本人托鉢僧を襲わせ、これを理由に武力衝突を開始する第一次上海事変を起こす。第一次上海事変は5月までもつれるが、このすきをついて3月1日に満州国建国を宣言する。
 ちょうどこの時は満州事変の調査のためにリットン調査団が訪日していた。この報告書では、日本が満州に対して自衛権を持たず、正式に建国したものではないと日本の間違いを指摘しながらも、満州を中国との分離を容認、自治政府を置き日本が治められるという好条件であったが、日本の非も認めなければいけないため、この提案を受諾しなかった。
その後ジュネーブで行われた国際連盟特別総会に置いて、松岡洋右は英語で「十字架上の日本」と演説するも、受け入れられず42対1で満州国は承認されなかった。そして松岡は内田康哉外務大臣に言われ、1933年2月24日国際連盟を脱退する。日本からも27日に正式に通告を行った。
 その後日本は、皇道派と統制派の争いが激化して行き、天皇機関説と国体問題を焦点とするが、これは天皇の事を尊敬しての争いではなく、単なる権力争いの道具になるだけだった。
 そんな中1936年2月26日、二・二六事件が勃発する。統制派に追い詰められた皇道派の将校が政府要人を襲撃、斎藤実(まこと)内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監は即死。鈴木貫太郎侍従長は重傷を負い、岡田啓介首相は影武者の松尾伝蔵予備役大佐も殺害される。これに対して同じ皇道派の石原莞爾が鎮圧に動き出す。翌日には戒厳令が敷かれ、すぐに部隊に戻らなければ反乱軍として攻撃を加えると言うと、兵士は次々に所属部隊に戻って行った。これにより北一輝や西田税(みつぎ)他17名が死刑、石原莞爾も隅へ追いやられてしまい、皇道派は一掃された。
 その後の政府は広田弘毅、宇垣一成と首相が変わるがすぐに辞職を余儀なくされる。そして1937年6月に誕生したのが近衛文麿内閣である。近衛は千年以上天皇に寄り添ってきた名門の生まれで、政治家でも財界人でも官僚でもないため、大きな人気を得た。しかし近衛は八方美人な性格でのし上がってきており、確固たる信念が合ったわけではなかった。
 新内閣が発足して1カ月後の7月7日、盧溝橋付近で夜間に演習をしていた日本軍に中国国民党軍が発砲をしたのをきっかけに両軍の衝突が始まり、盧溝橋事件が勃発する。この事件は不拡大路線を宣言する事で収まったかに見えたが、近衛は3個師団派兵を決定し、華北では戦火が広がる。米内光政の主張で日本軍は上海(第2次上海事変)、南京へと侵攻を進め、戦禍はさらに広がっていく。日本軍の兵士はこの時、十分な食料も正式な補給もないまま進行させられたため、「徴発」と称して行く先々で燃料、食糧、資材、牛馬などを略奪していた。
 上海事変の際、及び南京侵攻の時に近衛には蒋介石と会談を行い衝突を止める事ができたはずであったが、2回とも近衛がこれを拒否。さらに南京侵攻時には「爾後国民政府を対手とせず」とした声明まで出し、終着点の見えない日中戦争がはじまるのであった。