北朝鮮の核実験
9日に北朝鮮が核実験に踏み切った旨の発表があって、いよいよ来てしまったかという事態になったわけだが、これについて若干の考察。
●安倍訪中・訪韓との関連
一部から、北朝鮮がこのタイミングで「核実験」に踏み切ったことについて、安倍首相が同時期の中韓訪問で北朝鮮に対する包囲網を形成しようとしたことに対し、北朝鮮が「逆襲」的な行動をとった、という解釈が示されている。こうした解釈は日本のテレビなどでも言われているので、日本人のある種の「自意識過剰」な分析、と言うことも出来るのかもしれないが、ニューヨークタイムズでも同様のことが言われていたので、単なる日本人のみの感情的な解釈というわけでもなさそうである。さらに、日本人からするとかなりの違和感があるような分析だが、ニューヨークタイムズでは今述べたような安倍訪中・訪韓への対応のみならず、「新たに首相に就任した安倍が日本の軍拡を進めようとし、また核武装まで視野に入れ始めたことに北朝鮮が対応した」などという分析までなされている。
しかし、こうした分析はむろん適切ではない。北朝鮮がこうした瀬戸際外交のターゲットにしているのは、ほとんど全てがアメリカなのであって、実際にも、北朝鮮を生かすも殺すもアメリカ次第と言っていいほど、この問題でのアメリカの影響力は大きいのである。さらに日本はもちろん、中国や韓国の対朝姿勢に対しても、アメリカの動向が与える影響は大きい。さらに北朝鮮が中朝関係の悪化に躊躇せずに危機の創出を続けていること自体も、北朝鮮が中国をそれほど重視していない証左なのではないか。
よって最近日中韓の間にいろいろな動きがあったといっても、それを安易に北朝鮮の「核実験」に結びつけるべきではないのである。もし北朝鮮が日本や中国・韓国をそれほど大きな存在として見ているとすれば、日中・日韓関係が最も悪化していた小泉時代に、「核実験」のカードを切ったはずなのである。日中韓による対北包囲網の形成がより容易になっている安倍時代に行われたということは、そうした包囲網が北朝鮮にとって大した問題にならないから、なのである。この地域におけるアメリカの存在の大きさというものは、目に見えるよりも遥かに大きいことを忘れてはならない。北朝鮮による「核実験」は、あくまで徐々に危機に向かっている米朝の二国間関係の文脈の中で行われたのである。
また、この「核実験」のタイミングについては、以上のような政治的な事情とは別に、技術的な要因も大きいものと思われる。単に実験の準備に要する時間というのもさることながら、一般に核実験というのは、放射性物質の放出の可能性がある以上、実験場の風向きが有利な場合、すなわち例えば自国領の内側から外側に向かって風が吹いている場合などに行われることが多いと言われる。私自らデータを調べて確認したわけではないが、9日の核実験も、北朝鮮の東北部から海に向かって風が吹いているタイミングで行われたとのことで、こうした「風」要因も大きいものと思われる。いずれにしても、この件での「日本」要因を過大に評価すべきではない。
●「日本独自の制裁」の適否
上と関連するが、安倍内閣はつい先ほど、国連安保理での決議を待たずに、日本独自の対北朝鮮制裁を行うことを発表した。しかし私は、この措置が適切なものであるとは考えない。
とはいえもちろん、制裁という措置が一般に不適切であるわけではない。北朝鮮は標榜しているイデオロギーとは裏腹に、実際には極めて現実主義的な行動を取り、また現実主義的な行為に対してしか反応しない政権である。その意味で、「制裁」という明確なアクションは、北朝鮮に何らかのメッセージを伝え、その行動の変化を促そうとする際、一般には極めて有効であると言える。さらにまた、日本が自らの拉致問題を最重要課題の一つとしている以上、例えば横田めぐみさんの「遺骨」が偽物であると判明した時点などで、制裁に踏み切ってもよかったのではないかとも考える。
しかし、これまでに日本が踏み切った三度の制裁、すなわち北朝鮮がミサイル発射を行った時、小泉内閣の末期、そして今、の中で、その制裁の実施が適切であったのは最初の一度のみであった。特に二度目の制裁は、日本の次の政権が判断の責任を取らなくて良いよう、「バトンタッチ」的な事情で行われたもので、ほぼ日本の国内事情による制裁と言ってよく、北朝鮮の行為に対応して行ったのかどうかが、あまり明確にならない。
そして先ほど行われた三度目の制裁であるが、これはもちろん北朝鮮の「核実験」に対して行われたもので、タイミングや目的に曖昧な面はないものと考える。しかし問題は日本が「独自」でやることの意味である。現在、日米にとって、また恐らくはこの地域の平和と安定そのものにとっても都合のよいことに、中国・韓国・ロシアが、日米の立場にかなり近づきつつある。むろん北朝鮮に関する危機は最悪の状況であるが、それを囲む国々は、その「共通の敵」を前に、恐らくは史上最も強い結束に近づきつつある。そしてこうした結束は、それ自体に意義があるばかりでなく、それによってアメリカの圧倒的な影響を相対化し、その中の各国、とりわけその対北朝鮮姿勢がアメリカに次いで適切であった日本の発言権を強化することに資するものと思われる。日本はこうしたいわばビッグチャンスを前にして、その貴重な結束の足並みを乱すことには慎重を期さなければならない。日本「独自」の制裁は、日朝二国間の文脈ではそれなりの意味があるかもしれないし、また安倍内閣が国内的に自国の独自性をアピールするという(外交的には全く重要でない)意味もあるだろう。しかし日本をめぐる国際関係が現実にこうした多国間のものである以上、狭い意味での二国間関係や、国内の卑屈な感情に目を奪われて、より大事なものを失ってはならないのである。
今回、麻生外相以下の外務省は、こうした制裁措置に消極的だったものと思われる。この決定は安倍首相のリーダーシップによるものであり、いわゆる「官邸主導」のものであったと言えないことはない。しかし「官邸主導」はあくまで適切な政策決定のための手段であって、目的ではないのである。安倍内閣の今回の決定は、「受動的な日本外交」や「官僚支配の政治」を乗り越えることに、あまりに神経が注がれているように見える。しかし国際的にも国内的にも、「主体性」というのは「責任」を果たすことで醸成されていくものなのである。多くの人間が陥りがちのことではあるが、「主体性」と「無責任」とは全く相容れない、対極に位置するものなのだということを、特に指導者は決して忘れてはならないのである。
●対北朝鮮政策に関する日本国内の言論
以上のこととはあまり関係がないが、私のこうした議論のように、何だかんだ言って「保守」の側に立っている発言をした場合、日本の昨今の風潮から言って、それほど罵詈雑言を浴びることにはならないのではないかと思われる。特にインターネット上ではそうした傾向が強いようにも思えるが、最近はいわゆる「左」的な議論を行うと、それに対してあまりに感情的な、ほとんど人格攻撃と言っていい非難がなされることがある。そうした状況が「日本がもはや暗い時代に入った」云々を意味する、という議論も理解しがたいが、しかし少なくとも決して、ある論者について乱暴なレッテルを貼ったり、その議論について単純・感情的な理解をするべきではない。
ある人が「主権国家であり、NPTから脱退している北朝鮮が核実験を行ったということは国際法上問題があるものではないし、現に既に数カ国が核保有を済ませている現在、北朝鮮だけを特別に非難すべきではない」と言っていたのだが、こうした議論は論理的に大きな誤りがあるわけでもないし、こうした議論について、むろん決して鵜呑みにすることなく、自分なりに考えてみるということには大きな意味があるものと考える。
我々は社会の中の多様な意見に対して、もっと寛容、というより気楽に接していくべきではないかと思われる。「模範解答」というものは存在しないし、ある考えを「良識」などと権威付けることは愚の骨頂である。しかし同時に、そうした「権威」を振りかざされた場合にも、強く反発することなく、もちろん従うこともなく、気楽に「無視」し、マイペースに考えていくという「強さ」が、我々にはもっと必要であると思われる。民主主義にとって議論というのが不可欠なのは言うまでもないが、しかしちょっと肩の力を抜いて、いちいちバカ正直に反応しないという「気楽さ」「いい加減さ」も、観念上は別として、実際には非常に大切なのではないかと思うのである。