【ダンガンロンパV3】キェルケゴール「死に至る病」から見るダンガンロンパシリーズ | ラーメン食べたい透明人間

ラーメン食べたい透明人間

とらドラを愛してやまない物語中毒者。気が向いた時に更新します。

 

Steam:ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期

 

 私はこれまでダンガンロンパシリーズ(以下便宜上、1作目であるダンガンロンパをダンロン、スーパーダンガンロンパ2をスーダン、ニューダンガンロンパV3をV3、これら3作をまとめる時にはダンロンシリーズとする)をプレイしており、V3が賛否両論と物議を醸す内容だったので、個人的な考察を纏めようと思います。性質上V3までのネタバレを含むので、全てプレイした人だけに読んでもらいたい。

 

 主にダンロンシリーズが描いた希望と絶望を、デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールが著した「死に至る病」に記されている絶望の諸形態を元に考察していきます(講談社学術文庫より刊行された、鈴木祐丞氏の翻訳を参考にさせていただいた)。

 

 「死に至る病」とは、キェルケゴールは生まれながらにして敬虔なキリスト教信者であったが、キリスト教の本質的な部分を理解されず、形式を重視していたデンマーク教会に対する批判として書かれたものである。

 

 キリスト教にあまり馴染みのない日本人が多いので、この時点でこの後の考察すら読む気が薄れるかも知れないが、社会や歴史においてのキリスト教ではなく、個人として、一人ひとりがキリスト教に対してどう向き合うかを深く考察した哲学書であるということを理解してもらいたい。キェルケゴールはキリスト教に導くために執筆活動を行ってきたが、このブログでそういった意図は全くないということは前もってはっきりさせておく。キリスト教的に語られる原罪、それらの絶望と、無宗教な人間にも眠る絶望は同じものだ(信仰者もそうでない人も、人間として同じであるならば、同じ悩みを持つことはあるだろう。ただ信仰者は信仰により救われ、そうでないものはまた別のもので救われるだけである。進む先が違うだけで、根幹にあるものは同種であろう)。そういった絶望をなるべくわかりやすく噛み砕きながら纏めていくので、作品理解の一助になれば幸いである。

 

 

 余談だが、V3に登場するアンジーが絶望に対して全く動じていないその様は、これまでの希望によって絶望を打開したのとは全く違う解決法であった。彼女が”人間”であり”信仰者”だったことから得られた解答であり、V3が迎えたエンディングが宗教ではない救いをもたらした証左ではないだろうか。

 

 

 

 絶望

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 まずはダンロンシリーズが通して描いてきた絶望を紐解いていこうと思う。絶望と一口に言っても、「死に至る病」では幅広く絶望の形態を著しており、その中でも絶望の基本形態と、なぜ絶望が死に至る病であるかを抜粋する。

 

 絶望とは、永遠なものと自己自身を失ってしまっていることに他ならないからだ。

 

 永遠なもの、もしくは地上的なものとも本書では語られているが、端的に言えば故郷や住居、さらには他者との繋がりのような”自分にまつわるもの”と思って下さい。乱暴な例えだが、アフリカでは5秒に1人子供が亡くなってると言われるが、アフリカに何か縁がなければこのような事実を体感として受け入れることが出来ない。極端に言えば、何も縁がない状態だとアフリカが滅びたところで自己自身には影響はない(もちろんそれに伴う国勢や経済が日本に影響するので、全くの無関係とはならないが)。しかし友人や親族などの1人の死は自己に多大な影響を及ぼす。これは想像力の欠如とか、冷たい人間だからとかではなく、人間がそのように出来ているというだけである。もしそういった全ての死が自己に影響及ぼしていたのなら、人間は常に絶望していなければならない。なので自分の身を守るため、絶望とは自己自身と、それに結びつく永遠なものに限定されるのだ。なのでそれらの毀損が絶望へと繋がっていく。

 

 ダンロンで一番最初に提示された動機は家族等の外部のこと、スーダンでは記憶喪失という自己の喪失であることが最初に明かされた。だが必ずしも殺人(ダンロンシリーズではコロシアイを起こすことが黒幕の目的なので)に繋がるとは限らない。ではなぜそういった絶望に至るのだろうか。

 

 死が希望となるほど危険が大きくなるときの、死ぬことの出来ないという希望のなさ

 

 キェルケゴールはこれこそ”死に至る病”としているが、言い換えれば殺人に手を染めるほど大きくなった絶望、希望のない状況に追い込まれることでコロシアイが起こる。また自己を規定する他人の意志を無視すること、いわばそういった心の緩みも絶望に繋がるともしている。

 

 V3の4章で事件を起こしたゴン太は、外の世界のことを知り「自殺したくなるような絶望」と言っていたのは、まさに”死が希望となるほど危険が大きくなる”状態ということ。これが死に至る病であるが、これは死という希望に向かうことが出来る状態(そこで殺人という逃げ道を提示しているのが、こういったデスゲームというわけだ)であったが、6章で真実が明かされてから提示される絶望は”生き残って次のコロシアイに参加する”という、これこそまさに”死ぬことの出来ないという希望のなさ”である。

 

 

 ダンロンシリーズは永遠なもの、自己の喪失から絶望を描き、V3ではさらに段階的に絶望の深度を掘り下げ、最深部の死に至る絶望を描き出すことに成功しているのである。

 

 

 人間

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

 V3の6章で終一たちは人間であることが告げられ、それ以前のキャラクターはフィクションだと明かされた(つむぎがフィクション以外のコスプレをした時に出るキモいブツブツが出なかったため)。では人間とフィクションの違いはなんなのか。キェルケゴールは絶望とは自己自身を失ってしまうことだと述べているので、自己の規定、つまり人間とはなにかも本書に書かれている。

 

自己とは、無限性と有限性の意識的な総合であり、それ自身に関係する総合である。

 一つずつ分解しよう。まず無限性とは空想的なもの、有り体に言えば想像力のことだ。感情、認識、意志など目に見えず手に取れないものは想像するしかない。そしてその想像力を持って自己を表現し、可能性へと繋げていく(楽しい感情を得たいから行動したい。無知であることを認識したから勉強したい。夢を実現させるために努力したい)。しかし空想的になりすぎると、どんどん現実の自分から遠いものになってしまう。そこで出てくるのが有限性だ。

 

 有限性とは無限性の反対、実行可能な現実的なものである。そういった空想と現実の狭間に居ることを認識することで自己を得ることができる。無限性と有限性、どちらも意識的に認識し、両方を受け入れることで初めて自己となる。つまりどちらかが欠けた場合、それは自己自身を失ってしまっていることになり、絶望である。

 

 無限性と有限性、それぞれを欠いた場合を想像してみよう。無限性の欠如とは夢を失ってると言えばわかりやすいだろう。夢ややりたいことを失ってしまうと、自分に取り巻く人々の群れと同じことしか出来なくなる。そうなってしまうと自身だけの感情を失い、世俗に紛れることになる。まさに自己自身の喪失である。V3の2章で斬美が事件を起こした動機は、与えられた特殊任務が遂行出来ないことによる自己の喪失、そしてそれを実行出来る能力があるのにそれが出来ない環境に置かれたことによる絶望だった。

 

 有限性の欠落とは、現実的に不可能なことに固執してる、ということになる。例えばプロスポーツ選手になることを夢見てたとしよう。もちろん夢を見ているだけではスポーツ選手になることなど出来ないので、スポーツのトレーニングや勉強を行うだろう。この現実的に可能なことを欠いている状態、つまり夢を見ているだけで何も行動せず停滞しているだけの存在である。これもまた絶望と言ってもおかしくない。V3の3章では、死んだ姉のために魂を送るために殺人を犯す。現実的に不可能なこと(私は無神論者なのであの世の存在は信じてないが、是清のようにもしあの世を信じ込んていたとしてもそれは現実ではない)であり、空想的なものに執着した絶望によるものだった。

 

 さて、先ほどから絶望することとは悲劇のように書いてきたが、必ずしも不幸になることが決まっているのだろうか。かの思想家は、人間は考える葦であると言った。これこそが人間とその他生物と明確に線引される部分である。つまり、精神があるからこそ絶望できるのであり、絶望しているということは人間の証明でもあるわけだ。しかし先ほどから述べている通り、絶望するとは生を放棄する可能性すら秘めている。絶望している状態と絶望していない状態は、無限性と有限性のように一本の線の両端に位置する関係ではない。絶望とはプラスな面とマイナスな面を包括している。回りくどくなってしまったが、これが総合である。

 

 そしてその総合を自身に関係しないと突っぱねた場合、「自分は絶望などしない。そうなってしまうのは弱いからだ」などと嘯くように、自己に無知であることですら気づくことすら出来ないのだ。

 

 人間とは、無限性と有限性の一本の線の上に立っているわけではなく、無限性と有限性の両方を内包している、そしてそれが自分のものだと受け入れることで初めて自己を手に入れる、とキェルケゴールは述べているのである。

 

 

 嘘

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 絶望すること、それが人間であるとここまで記してきた。これからはそれらを踏まえてV3で製作者が伝えたかったメッセージとはなにか考察していく。

 
 まずV3をプレイして一番驚いたことは、偽証というシステムだ。元々推理やミステリのジャンルが好きなので、そういった作品をよく見てきた。確かにその中で毒をもって毒を制すようなシナリオがなかったわけではないが、ゲームのシステムとして採用し、さらにそこにメッセージを込めていることに気づき嘆息した。真実を解き明かすという性質により、ギャルゲなどのようにシナリオを分岐させるのが難しいジャンルであったが、このシステムでそういったことが可能にしていて、さらにシリーズ続編として受け継ぎつつ追加された要素にもなり素直に感心した。
 
 5章で王馬小吉がこのゲームそのものが不当なものではないかと疑い、被害者不明の状況を生み出しゲームそのものを終わらせようとした。最初から最後まで嘘を巧みに操り本心を隠し続け、ついにはモノクマが真相を判別できないまでに追い込んだ。ここでは意図的に真実を嘘で包み隠したが、6章ではこれまでのダンロンシリーズで繋がっていたと思われていた全てのものがフィクション(嘘)であると明かされ、集められた16人は人格を改ざんされた作り物だと突きつけられる。
 
 
 これまで絶望を希望で打ち砕き、真実を追い求めてきたダンロンシリーズ。しかし絶望とは、一方的に否定するものではないのではないか。ダンロンのように絶望から逃げ、学園に閉じこもっていたところに記憶を消され、希望を求め外へ向かおうとすることが絶望に向かっていたように、物事を一面だけで捉え、見つけた答えが真実であるとは限らない。人間は希望か絶望の二面性しか持ち合わせているわけではない。どちらも持ち合わせている総合なのだ。なので嘘だからといって真実にならないとは言えないのではないだろうか。嘘の中にも真実があるのならば、真実の中にも嘘があるのが道理だ。これまで正しいと決めつけていたものを疑い、間違っていると切り捨てていたものも拾い上げ、なにが正しさなのかもう一度見つめ直そうとしたのがV3でやろうとしたことではないか。
 
 
 

 なので全てをひっくり返したのは決して悪意だけではない。たとえフィクションに貶めようが、それを本物だと信じることも出来る。V3で批判を恐れずこれまでを否定したのは、これまででは得られなかったものを見つけようとしたからではないか。

無限性を手にするには、絶望を通ってゆくより他に仕様がないのだ。

 絶望を知らなければ得られないものもある。フィクションであることを明かしたのは、キャラクターをより人間に近づけるためだと私は感じた。前述したとおり、人間とは総合である。より深く絶望を描いた本作だからこそ、より深く人間を描けた。だからこそ終一は見つけたものが本物だと叫べたのだろう。

 

 

 

 私はフィクションを愛してきた。物語の主人公たちの行動に一喜一憂し、彼らの感情に共感した。たとえそれらが誰にも受け入れられず一蹴されるものだったとしても、私の中に確かに存在する。その無限生から力を貰い、有限性として現実を生きる糧になってきた。フィクションは人間に、本物になりうる。そしてそれは永遠なものへと昇華される。きっと製作者も同じ感情を持っていると信じている。

 

 

 

 

 V3は単なる推理ゲームではない。これまで積み上げたものがあるからこそ、そこから一歩踏み出し、新たな世界へと旅立つための物語だ。夢を叶える物語は確かに生きる勇気を貰えるだろう。しかし、夢のままでいることは停滞と同義である。停滞は絶望だ。だからこそ、フィクションであることを明かし、それを受け入れ前に進もうというメッセージではないか。嘘の中から真実を手にし、才囚学園の檻が壊れ差し込んだ光、その先には現実が待っているだろう。しかし現実も嘘と真実が入り交じる世界である。それはフィクションの世界と同じではないか。しかしそれで悲観しなくてもいい。現実も、フィクションも、人間も、感情も、夢も、思想も、希望も、絶望も、全ては真実にも嘘にもなる総合だ。だからこの先にあるものがなにか断定することは出来ないし真実かどうかもわからない。けれど信じることは出来る。自分が見つけた真実なら、この先に何が待ち受けようとも、前に進むことが出来るだろう。最後に明確に答えを突きつけないのは、絶望にも希望にもなりえる状況こそが現実であり、未来だからだと私は思う。

 

 

 

 

 

 

 以上がV3をクリアしての感想、及び考察でした。書いてる途中で2章3章が無限性と有限性の欠如ではないかと思い至ったのですが、ちょっとこじつけが強いかもしれません。しかし大切なのは信じることなので、世界中の誰一人認めなかったとしても、私はこれを信じようと思います。いろんな作品を見ていると、好きじゃないなって思うことももちろんあります。けれど、それは私の視点が足りないだけだったり、他人にとっての正しさが見えてないだけなんでしょうね。V3の評判を聞いてからプレイしていたので、結末はなんとなく予想していて、この作品に否定的な意見が出るのもすごくわかります(マコトくんとか、平和な国でコロシアイを望んだから生まれた作品だったとか露悪的すぎるでしょう)。けれどフィクションに救われた私は、フィクションにも本物があることを知っています。その真実を、この作品は提示してくれたように感じます。

 

 ダンロンシリーズは真実を追い求めてきました。あなたにとっての真実はなんでしょう。もしこのブログがそれを見つける一助になれば幸いです。それでは。

 

 

 

 

参考文献