【青ブタ映画】青春ブタ野郎シリーズを好きだからこそ言いたいこと | ラーメン食べたい透明人間

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とらドラを愛してやまない物語中毒者。気が向いた時に更新します。

 2018年の秋に本作のテレビアニメを見た時、思春期の少年少女が抱える悩みの発露を゛思春期症候群”という形にしカタルシスを得る、という手法に痺れました。心の裡を吐露し、感情を浮き彫りにし自己を形作っていく様は、ジュブナイル作品特有の青臭さも相まってとても魅力的で、映画鑑賞のために映画館に足を運ぶことになんの躊躇もなかった。

 

 劇場版はTVアニメと地続きになっていて、特に今回のヒロインの牧之原翔子はアニメでの伏線もあるので、そこから軽く振り返りつつ、映画の感想を書いていこうと思います。当然内容に触れますので、自衛してください。

 

 

 

 主人公である梓川咲太の妹、花楓は学校でいじめを受けていたことが原因で”ネットでの悪口を見ると実際に体が傷ついてしまう”という思春期症候群を発症し、それが原因で解離性障害を罹患、これまでの記憶を失い家族関係も悪化した。そんな妹を助けれなかったことを悔やむ咲太も思春期症候群に罹り、七里ヶ浜で途方に暮れていたところに牧之原さん(後述するが、未来の牧之原翔子を便宜上、牧之原さんとし、現代の中学生の方は翔子ちゃんと呼ぶ)と出会い、この女性のような優しい人間になろうと咲太は決心。花楓を「梓川かえで」として生きることを提案し、牧之原さんを追いかけるように峰ヶ原学園に入学、妹のために家族と離れふたり暮らしを始める。

 

 高校2年生に進級した咲太は、同じ学校で女優として有名な麻衣先輩と出会う。が、彼女はバニーガールの格好という奇抜な格好をしてるにも関わらず、周囲はそのことを気に留めていない。

 

 原因は仕事で学校生活を疎かにし、母親との関係の悪化も相まって”誰からも認識されない”思春期症候群だった。次第に麻衣の姿を捉えることが出来る人間が減る中、麻衣の記憶すらだんだん薄れていく咲太。一度は忘れてしまったが再び思い出した咲太は、学校で全生徒に聞こえるように麻衣に告白し、生徒たちは麻衣を再認識出来た。

 

 告白から1ヶ月後、麻衣と交際を始めることになった翌日、昨日と同じ日が始まり、交際することがなかったことになっていた。この問題を解決すべく、原因が後輩の朋絵にあると突き詰めた。朋絵は3年の先輩から告白を受けていたが、友人関係を守るためにこれを回避したいと望んだ結果、同じ日を繰り返していた。

 

 そのため咲太と朋絵は偽の恋人関係を演じているうち、そのうち本当の恋心を朋絵は抱いてしまう。そのため本来のループは回避出来たが、演技を終えたくない一心で、偽の関係を解消する日をループすることになる。しかし自身の気持ちを咲太に伝え振られたことで、思春期症候群は解決した。

 

 夏休みに入り、これまでの問題に協力してくれた友人である理央が、咲太とその友人佑真と共に彼女ができたことがきっかけで、ふたりに増えてしまう思春期症候群に罹ってしまう。

 

 独りになる不安からSNSに自撮りをあげる理央と、その手段を許せない理央。そのうち一人の理央が、咲太と佑真の三人と花火をして夜を明かしたことで孤独を解消したが、もう一人の理央は仲良くなれてない自分など不要と考え失踪する。

 

 しかしそんな理央を見つけ出した咲太に諭され、電話を介し本心を口にすることで一人に戻る事ができた。

 

 二学期が始まり、咲太は麻衣とその義妹のどかと出会う。しかし二人の身には、思春期症候群で中身が入れ替わってしまう現象が起こっていた。お互い入れ替わっていることがバレないよう生活していたが、ある日大喧嘩をしてしまう。

 

 互いにコンプレックスを抱え不和になっていたが、麻衣が幼い頃から大切にしていたのどかから送られてきたファンレターを見たことで、その思いを打ち明けたのどかは、桜島麻衣になるのではなく豊浜のどかとして生きることを決め、二人は元の姿に戻った。

 

 季節は秋に差し掛かった頃、引きこもりと不登校を解消するために、かえでは目標を記したノートを咲太に見せ克服する努力を開始する。

 

 家の敷地から出ることすらできなかったかえでだったが、咲太と一緒に少しずつ外に出れるようになった。そんなある日、かえでの目が覚めると花楓になっていた。花楓はかえでの2年間を全く覚えておらず、喪失感に打ちひしがれる咲太は、牧之原さんに兄としてかえでを受け入れろとアドバイスする。

 

 花楓はかえでのノートを見て学校に行きたいと咲太に告げる。かえでは消えてしまったかもしれないが、かえでの願いは花楓に受け継がれ、かえでがそう願ったから花楓は前に進むことができたのだ。

 

 季節は冬に移ろい、咲太の家に牧之原さんが訪ねてくる。実は翔子ちゃんは重い心臓病を患っており、小学生の頃から先の短い人生を自覚していたせいで思春期症候群を発症する。周囲との時間間隔のズレから自分より成長の早い牧之原さんが生み出され、自分が生き延びれたのは咲太の心臓を移植したからだと知らされる。咲太はクリスマスイブに事故に遭うことを教えられるが、結局自分の命を犠牲に、翔子ちゃんを助けることを選んだ。

 

 事故に遭う直前、咲太をかばうために麻衣が飛び出し、咲太の代わりに麻衣が犠牲になってしまう。

 

 悲しみに暮れている咲太の前に再び牧之原さんが現れる。この牧之原さんは、事故に遭った麻衣の心臓を移植され命を繋いでいた。麻衣さんを助けたいと願う咲太は、過去に戻る方法を聞き出し実行する。

 

 過去に戻ると同じ人間が2人存在してしまうことになるので、未来の咲太は自分の姿が他人に映らない状態だった。自分を見つけてもらえる人間を探すために奔走し、結果朋絵に見つけてもらうことができた。のどかの力を借りて麻衣に会うことに成功し、自分を助けないよう釘を刺す。

 

 事故の犠牲者を出さないということは、翔子ちゃんが助からない可能性があるということだ。咲太は牧之原さんにその意志を伝え、自分自身を跳ね飛ばすことで事故を回避するのに成功する。

 

 移植を受けれなかった翔子ちゃんを救おうとするが、もう既に余命幾ばくもない状況だった。過去に戻れた経験を活かし翔子ちゃんを救おうとするが、そうすると思春期症候群を発祥せず牧之原さんが生まれないことになる。危篤状態の翔子ちゃんはやり残した宿題を終え眠りにつくと、世界は牧之原さんが生まれない世界へと変化する。

 

 変わった世界では麻衣がドナー登録を訴えた映画に出演しており、それが功を奏してドナー登録者が増え、翔子ちゃんを救うことができた。牧之原さんと出会ってなかったので最初気づかなかったが、記憶を取り戻し翔子ちゃんと咲太は再開する。

 

 

 ここまでが映画までのあらすじなんですが、映画では命の選択だったり、アニメからの伏線の回収(過去に飛んだ咲太は自分が透明化した時、麻衣が思春期症候群に罹った時のマネをしたり、量子もつれで朋絵に発見されたり、同一人物だろうと電話越しでなら会話できる等)をしていて非常に良かったのですが、一つだけ疑問が浮かびました。

 

 

 この映画はハッピーエンドなのか?

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 この作品は思春期症候群というファンタジーを扱いつつ、その現象は実在の物理学や哲学を引用して説明していたり、原因は自己の弱さや周囲の環境により発症したもので、解決法も弱さの克服だったり、一人の人間として自立させたりすることで困難を乗り越えてきました。

 

 しかしこの映画(というか翔子ちゃんを救う方法)だけ、過去をやり直すというファンタジーな手法を取っています。家庭環境の悪化や、友人関係との問題、自己肯定感の低下、劣等感、嫉妬、望まれず生まれてしまった子……、様々な現実的な問題を最終的には自力で乗り越えてきたにも関わらず、病気の子を(現実的な方法で)救うことを諦めています。思春期の子どもたちが悩んでる問題を解決してきたのに、もし先天的な病気で同じ境遇の子だけ”過去に戻れなければ救われない”と言われた時、どう感じるでしょうか。もちろん咲太、麻衣、翔子の全員の命を救う方法はなかったかも知れませんが、かえでが消えた時、その悲しみから救った言葉は何だったのか。なぜ咲太は花楓に「パンダを見に行こう」と言ったのか。

 

 かえでは両親にすら生まれたことを受け入れられず、その苦しみから花楓として生きようとしますが、咲太が”かえで”と呼び、一人の人格として認めてくれたから、その優しさの恩返しのため、花楓の悲しみを克服するために努力をしたのです。そして花楓が目覚めた時、今まで学校に行こうとしなかったにも関わらず、咲太に「学校に行きたい」と気持ちを伝えます。もしかえでが現状のまま満足していたなら、こんな願いはなかったでしょう。かえでが前に進んだから、花楓は未来に向かって足を踏み出すことができたんです。かえでが消えてどうすることも出来なかった咲太も、牧之原さんに「お兄ちゃんなんだから受け入れなさい」と言われたことで、かえでの思いを理解し、顔を上げることが出来たのです。

 

 死は絶対的なものですが、だからといって幸福になれないわけじゃないと教えてくれたかえで編だったはずです。思いは繋がっていき、死んだ瞬間に消えるわけじゃない。忘れず、それを受け入れ前に進めと言ったのは牧之原さん自身だし、それに救われたの咲太だったのに、なぜ翔子ちゃんの死を受け入れず、過去の改変という逃避を選んだ理由がわからない。花楓が傷ついた時、牧之原さんに出会い優しい人間になりたいと願ったおかげでかえでは救われ、峰ヶ原高校に入学して麻衣と出会い、その周囲の人間を助けてきたはずなのに、過去を変えることでかえでや麻衣を救えない可能性があったにも関わらずだ。それに、過去が変わることで、本来出演する予定だった映画を降りています。このことで不幸になった人間や、救われなかった人間が居ないと言い切れるでしょうか。世界より、たった一人の命を救うってテーマがあれば問題ないと思うけれど、あのラストは咲太、麻衣、翔子ちゃんの3人にしかスポットが当たっておらず、視野が狭いんじゃないかなぁ……ってのが正直な感想です。

 

 好きな言葉に、YU-NOで出てくる「時間は可逆だが、事象は不可逆である」という台詞がある。たとえ時間を遡ったとしてもそれまで起こったことは消えず、過去を遡ったという事実が忘れぬ限り重なり続ける。この過去を切り離すということは、自己を切り離すことに等しい。つまり、過去を変えるということは、それまでのことを放棄し、全く違う自分になるということである。

 

 それを踏まえると、牧之原さんが消えて今の咲太がいなくなる可能性があると作品内で提示されたにも関わらず、受け入れろと言われた咲太と言った本人が記憶を無責任に放り出したり、咲太を助けるために自分さえ犠牲にした麻衣が、今と違う咲太になることに同意するだろうか?「人に理解されない苦しみを知った咲太くんなら、きっと誰よりも優しくなれます」と言った牧之原さんと、それに感化された咲太が、その苦しみを忘れることを受け入れるのか?「今ここにいるのは、今のかえでだから」と言った咲太が、その今を否定するのか?これまでのキャラクター像からブレてるように感じて仕方がない。

 

 確かに、最終的には記憶を取り戻したしハッピーエンドじゃんって思うかも知れないが、私は違う時間の記憶が急に頭に入ってきても、それを素直に信じれる自信はない。何度も夢に出るからって、そのことに身を委ねれる気にはなれそうもない。このことをハッピーエンドと盲信出来るのは、全てを見ていた私達がいたからで、現実にはそんな神のような存在はいない。最初に青臭さが好きだと言ったが、この結末は青臭さを通り越して幼稚に思える。

 

 ……まぁこの感想が個人的なものなので押し付けるものではないけれど、私の考える優しさと、主人公達が選んだ優しさにズレを感じてしまったので、ラストシーンに諸手を挙げて称賛することが出来ない。個人的な意見ではあるが、誰かが犠牲になってそれを受け入れ前を向けるストーリーのほうが作品の筋は通ってるように思う。(誰が犠牲になるかについては、先を考えないなら咲太で、「あなたが教えてくれたんです。たとえ誰かが消えてしまっても、それを受け入れることで誰よりも優しくなれることを」みたいな台詞を言って、咲太を助けようとした牧之原さんが消える展開とか。先を考えるなら、それこそ翔子ちゃんを助けられずに、ドナーに二人が尽力するでもいいし、正直映画見てる最中は、麻衣さんの覚悟が強すぎて、そのまま麻衣さんが犠牲になって話が進むんじゃないかとも感じた)

 

 私はこれまでのストーリーが本当に好きだし、それこそ過去が変わるまでは、登場人物たちの感情は本物だと思っていたので、ラストでリアリティが失われたのが残念に思う。もちろん全ての創作物が高尚である必要はないし、エンタメとしては面白いのではないかと思う。ただこれまでのストーリーで救われた心あったはずなので、それを蔑ろにはしてほしくない。

 

 この物語を見て、最初に感じたことを否定したいわけじゃない。この作品に感情は確かに存在した。けれど牧之原さんが諭したように、優しさとは、幸せとはなんだろうかと、この作品を見た人には少しでも考えてくれれば嬉しい。

 

 そうすれば、昨日の自分よりも、今日の自分がちょっとだけ優しい人になれると思うから。