【君の膵臓がたべたい】私は私の膵臓をたべたい | ラーメン食べたい透明人間

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とらドラを愛してやまない物語中毒者。気が向いた時に更新します。

 今年の初春に本作が実写映画化されていて、書店でも原作小説が専用コーナーが作られてたりして、傍目に見てても流行ってるように思えた。

 

 正直あまり興味がなかったのですが、一般受けしなさそうなタイトルでこんなに話題になっていて、恋愛小説を読みたくなったので、何気なしに手に取りました。

 

 残念ながら実写映画の方は見ることが出来なかったのですが、少し調べると賛否両論あったので、アニメ映画はどうなるのか、内心ヒヤヒヤしていました。

 

 しかし蓋を開けてみれば、とても良く出来ていて、興が乗ったので感想ブログでも書いてやろうという気になりましたので、つらつらと綴っていこうと思います。

 

 

 

 主人公の日常

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 人付き合いが苦手な主人公は、家や学校では本を読んで過ごしている。そうすれば煩わしい人間関係を気にせず、仲良くなろうと声をかける人も減り、平穏な日常を過ごすことが出来る。

 

 この気持ちはよくわかります。私がそうでしたから。上辺だけの人間関係に価値を見いだせず、本の中にある感情に向き合ったほうが楽しかった。

 

 私が本を読む理由は、作品のキャラクターやストーリーを通し、作者の感情を読み取りたいから。そうすることで、自分の中にある、知らない感情や名前の呼べない感情に名前をつけたいから。作品に感情を与えられたので、そうすることによって自分を形作ってきました。

 

 私が私でいられるのは、作品があったからです。

 

 主人公が同じ理由で読書しているかは口にしてませんが、桜良の遺書にそのような理由が書かれてました。本人も、名前を呼ばれた時にどういう感情を持っているのか、想像するのが好きだと言っていた。そしてどう思われていてもどうでもいいとも。

 

 つまり、他人と自分の感情を区別し、その上で自分の中にある感情を選んできたのではないか。

 

 主人公の日常とは、人となるべく関わらず、静かに自分の中の感情を見つめることだった。

 

 桜良の日常

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 明るくて活発な彼女は、友達にも恵まれ、学校生活を謳歌していた。特に恭子とは付き合いが長く、親友と呼べるくらい大切な人だった。好奇心も旺盛で、ちょっと間の抜けたところも含め、色んな人から慕われていたのが伝わってくる。

 

 一言で言えば、どこにでもいるような。しかし、そんな彼女の日常はもう一つある。

 

 もうすぐ病気で死ぬということ。

 

 もしこのことを恭子たちに話してしまえば、これまでと同じような生活は送れなくなる。少なくとも、家族は桜良の我が儘を断るようなことが減っている。家族は桜良がいる日常の終わりを知ってしまったせいで、これまでの日常が変わってしまった。

 

 桜良は恭子たちの日常を、学校での日常を壊したくなかった。けれどそうすると、周りに嘘をついているようで、いたたまれない気持ちになっていたというのは、容易く想像できる。

 

 そんな脆く崩れそうな2つの日常を、桜良は抱えていた。

 

 

 日常の崩壊と再生

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 主人公が桜良の「共病文庫」を拾うことから物語は始まる。頑なに病気のことを隠していた桜良の日常は、この時崩壊した。

 

 桜良は主人公にこのことを口外することを禁じ、それまで通りの日常を送ることも出来たはずだが、彼女は主人公と仲良くなることを選んだ。

 

 これによって、主人公の日常も崩壊する。彼も桜良の要望を無視し続けることも出来たのだが、なし崩し的に彼女と付き合うことにした。

 

 2人の日常は崩れてしまったが、互いが選んだ道はそれを修復し新たな日常を得ることだった。

 

 主人公は誰かと学校生活を送ることを。桜良は病気のことを隠さずいれる同級生の存在を、それぞれ得ることが出来たのだ。

 

 

 そもそも日常とは

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 さっきから日常って単語が頻出してますが、ここで指す日常ってどういうものかというのを、私の主観ですがまとめようと思います。

 

 日常がもたらすものは2つあります。1つは人間の形を作るもの。もう1つはその形に重さを作るもの。

 

 前者は文字通り、人として育てられるかという部分が大きい。鏡を見れば人の形をしているかどうかなんてわかるものですが、精神に異常があるとそうは見えないかもしれません。

 

 「HUNTERXHUNTER」のジャイロなんかは、人として育てられなかったので黒いもやもやで描かれてたり、今期アニメの「ハッピーシュガーライフ」あさひの父親も、非人道的な行いが目立ち、あさひの目からは人とは思えない姿で映っていました。

 

 彼らには当てはまりそうも無いですが、主人公なんかは、鏡を見て疑問に思ったことがあったかもしれません。なんで人の形をしているのに、誰からも必要とされていないのだろうかと。そういった悩みは、思春期に訪れるよくある悩みなんじゃないでしょうか。

 

 2つ目の重さというのは、自分を自分と定義づけれるもの。存在感と言ってもいいかもしれません。

 

 あなたがあなたと言えるのは何故でしょうか。戸籍があり、自分を産んだという両親がおり、卒業した学校があり、そこで出来た友人がおり、雇用契約を結んだ会社があり、そこには上司や部下がいる。今まで出会った様々な人があなたの存在を認めていて、それが自分に重さを与えている。この関係が強固なほど、自分という存在が強くなる。

 

 もしそれらが薄くなり、自分の存在感が軽くなってしまうとどうなるのか。地面に立つことが困難になり、風が吹けば飛ばされ、自分より存在感がある人間にぶつかるだけで壊れてしまう。

 

 「化物語」の戦場ヶ原さんは、体重を取られ重さがほぼないような状態でした。これは自分の過去や親を否定したことによって、自分の存在感=重さが無くなってしまったためです。そのせいで人付き合いが困難になり、さらに存在が薄弱になってしまう。一度重さを無くしてしまうと、それを取り戻すのことすら難しくなってしまう。

 

 では他者との繋がりが薄い主人公はどうしたのかというと、物語の中に自分を見出していた。作品を通じることで自分を見つめることにより、自分の存在を定義し、重さを与えていた。

 

 一方桜良は作品の中で、私の魅力は、周りにいる誰かがいないと成立しない、と言っているので、前者の考え方だというのがわかります。

 

 他者から自分を見るか、自分自身を見つめるか、主人公と桜良は正反対に位置してると言えるでしょう。

 

 

 そして日常は顔のない何かに奪われる。

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 このように日常は、周囲の人間や環境に左右される部分が多いですが、それらは全て自分の選択で成り立っている。1つ一つの選択が、人の形を作っていく。それは周囲の人間や環境のおかげかも知れないし、それを反面教師にしているからかもしれない。どちらにせよ、それらが全て積み重なって、自分という形を作っている。

 

 そんな日々の積み重ねも、ふいに全て崩れる時が来る。桜良の場合は病気だった。彼女は同じ学び舎に生きる誰よりも早く、その人生の幕が降ろされることが決定されてしまった。

 

 映画では語られてませんでしたが、おそらく桜良が罹患したのは中学生の時。当時にはすでに恭子と友達だったため、彼女には話すことが出来なかったんだろうということが伺えます。

 

 自分の命の期限を知らされ、彼女は自分の生きる理由や周囲との関係を見つめ直します。そこで得たのが、”今まで通りの日常を送る”だったわけです。桜良は自分が生きているのは友人らがいるからで、その人たちの日常を壊すと、自分の日常すら壊れると考えていた。そんな日常を送っている時に、主人公と出会った。

 

 誰とも接しず1人で読書ばかりしていた彼は、自分と正反対にいる人間だと思い興味を示した。ある日、たまたま落とした共病日記を主人公に拾われ、仲良くなることを決意。半ば強引に遊びに誘い、渋々主人公がそれを受け入れる。二人にとってそれが日常になっていった。

 

 非日常が日常になる。そんな当たり前は、唐突に終わりを告げる。それは純粋な悪意だったり、天災だったり、避けようのない悲劇は誰のもとにも平等に訪れる。例え余命幾ばくもない人間にも。

 

 これだけでも残酷であるが、私がもっと残酷だと思うのは、これも全て日常となってしまうこと。これから主人公は、桜良のいない日常を歩いていかないといけないということ。

 

 もしこの日常を放棄すれば、重さを失い自分自身を保てなくなる。人は悲劇を受け止め、それを背負い生きなければ、前に進む事はできない。もし主人公がこれを受け入れなければ、桜良の思いを知ることも出来なかったし、変わろうとすら思わなかっただろう。そうして人は強くなるのだと私は思う。

 

 

 人は一人では生きていけない、それが私の持論です。完全な孤独とは、生きていると認知されないということですから。私は多分、周りに比べて友人と呼べる人が少ないと思う。それでも生きていると実感できるのは、物語が私を導いてくれるから。物語の中に人を見出し、例え面白くない作品を見たとしても、誰が何を思い作ったのか、私ならどういう感情をその作品で表現するのか想像して、自分という形を作っている。

 

 膵臓は胃の裏側に隠れており、触診できず内視鏡も届かない沈黙の臓器と呼ばれています。体の奥深くにある、自分でも理解できていないが、人間を作り上げている大事な一部分。主人公は桜良の膵臓を食べることによって、彼女の感情を理解し自分のものにしたいと考えていた。しかし私は、自分の中にある感情を紐解き、それを大切に守っていきたい。

 

 この先、辛く立ち上がれないような日常が襲いかかってくるかもしれない。けれどその辛さは、出会えた幸福から来るもので、その辛さを味わいたくないからと逃げるのではなく、それを受け止め、自分の中に深く刻み込めば、これからも前に進める気がするから。

 

 私は私の膵臓が食べたい。そう誇れるよう今日も生きていたい。

 

 抽象的で持論ばかりだったので伝わりづらかったかもしれませんがご了承を。そんな駄文をここまで読んでくださりありがとうございます。

 

 それではこのへんで。