高飛車子です
本音を言わなくなる授業
少し前に私が参加したある事例発表会
子供向けの道徳の時間に行った発表です
森にとても意地悪なくまさんがいました
動物たちを追いかけまわしていじめ
わざと物を壊し
みんなから嫌われていました
そんなある日
またいつものようにくまさんが意地悪をしました
動物を追いかけたその時に
切りかぶにつまずいて転び
くまさんは怪我をして立ち上がる事ができません
その時に動物たちは
様々な対応をしました
CP:いつもいじめているからだ!
NP:くまさん大丈夫!痛かったね~
A:骨が折れているかもしれない
誰か森の大人を呼んで来よう
FC:大変!大変!どうしよう!どうしよう!
AC:(ちょっと離れたところからじっと見ている)
発表者は
まずは私たちにどんな気持ちになったかを
聞きました
授業で先生は子供たちに
自分はくまさんに
どんな気持ちになったかを聞き
該当するところに手をあげさせたそうです
当然、いろんな意見に分かれます
「いつも意地悪ばっかりしているからだ」
そう思う子供もいます
(私もそう思いました)
しかし、道徳ですから
模範解答はNPの気持ちになれることです
先生は子どもたちの気持ちがNPになるように
人に対する思いやりを話します
そしてもう一度
くまさんに
「どう思ってあげなければならないか」を聞くのです
ここで子どもたちはほぼ全員が
NPの「くまさん大丈夫?痛かったね」に手をあげます
しかしその先生は
子どもの中にはそれでもまだ
「意地悪だからそうなったんだ」と
いう子供がいるんです
と、残念そうに話していました
(そりゃ、いるでしょ)
実際、最後まで「いい気味だ」と思ったと
口にした子は
その子はクラスの中でも少々お友達に意地悪で
問題行動が多いと言っていました
関連性が無いとは言えませんが
NPに手を上げた子供が
全員本心で手を上げたかどうかが気になります
模範解答が目の前にある以上
教室内では公開処刑が
実行されているようなものです
くわえて先生は
「親も子供をしつけられない親が多いです」
と話していました
私はこの事例発表に
少々強くアセスメントをしました
「意地悪だからそうなったんだと
子どもが思ったことを
頭からいけない事だと
すでにジャッジが決まっていますよね
意地悪ばっかりするからだと心で思っても
救護活動をすれば良いのではないでしょうか?
放置したり、置いて逃げたりしたらダメだけれど
意地悪ばっかりするからだよと思う事は
間違いだとは思いません
はじめはいい気味がと思ったけれど
後から痛がるくまさんを見て
いい気味だなんて思ってごめんね
くまさん大丈夫かな~と
心が動く事が大事だと思います
実際私はこの話を聞いて
わたしもざまあみろと思いましたよ
そして、どんな気持ちになったのか
次のどれかに手を上げてくださいと言われた時に
いやだと思いました
大人でも嫌な事を、子どもにさせたら
子どもは模範回答しか言わないですよ」と言いました
そして
「親は教育のプロじゃない
先生達が出来る事を親も出来るわけじゃない
なんのために学校があるのか
親は教育のプロでは無い
先生の立場で
親の教育力の低下を愚痴るのは
それはおかしいんじゃないか」
親にできない事を
学校がサポートする
教員はそのために4年間教育の勉強をするのです
それが先生であり、学校でしょう
道徳の時間は必要だと思います
しかし
どう考えたのか手を上げさせて
クラスの中で「公開裁判」が起これば
子どもたちは本音を話さなくなります
はじめから
なんでそんな冷たい事を考えるんだ
と嘆くのではなく
子どもたちの心の変化を起こさせていく事
ここが必要なのだと思います
優しさは答えを教えて覚えるのではなく
体験する事、意地悪な考えを持ってしまったと
自己嫌悪が起こる事で変化していきます
決して「回答」から選ぶ事ではありません