今回は、性などの類とは異なり、
重いテーマについて少し触れてみます。
この日本という国では、表面上は平和で、
格差などの困難はありつつも、死との隣り合わせにいる状況ではありません。
もちろん、事故や殺人、自殺、天災、病気などで身内や知人を亡くされた経験のある方も大勢いらっしゃいますでしょうから、完全に死が遠いとはいえませんが、
兵器を用いた戦争の戦火の中にいるだとか、致死率の高い伝染病が蔓延しているだとか
国民の大多数が、おにぎり1つさえ口にできない・・・とかってわけではありません。
日々、不景気で貧しいと謳っている私でさえも、
満足にご飯を口にできているし(豪華な食事ではありませんが)
お風呂も入れますし、エアコン、洗濯機、冷蔵庫、TVなどの家電製品に溢れ、
パソコンでインターネットをしてそれなりに暮らせています。
国民全員がそれを可能にしているわけではないでしょうが、
平均水準でいえば、大多数で占めていると思います。
しかし、そんなこの国での死亡率のTOPは、
寂しい事に、自殺です。
自殺を肯定か否定か・・・などの話は、ここではしません。
それはそれぞれご自身の思想にお任せします。
さて、前述した意味での"平和"の中にあるこの国でも、
インターネットを通じ、"情報"や"視覚・聴覚"により、
死 というものを感じさせられたりする体験も多いのではないかと思います。
実は今回の記事を書こうと思ったのも、
ご存知の方はいらっしゃるかもしれませんが、
某大手掲示板内でのトラブルが発端で、若き学生さんが
"自殺"をインターネットのリアルタイム動画配信にて行った・・・(いわゆる自殺生中継)という事件がありました。
(事件という言葉が適切なのか分かりませんが、ネット上のニュース記事にもなったという事で
この言葉を選ばさせていただきました)
その配信映像は録画され、某大手投稿動画サイトをはじめ
様々な場所で2次配信・配布されたようですが、早い段階でどの動画も運営から削除されたみたいです。
(動画2次配布は故人のご意思だったそうですが、真偽は定かではありません)
ですので、私自身も生中継も、2次配布動画も目にしていませんし
残っていても、恐らく見てはいません。
しかし、方々の掲示板では故人の自殺までのいきさつや、自殺(首吊り)決行、その後の様子や
実況中の心情や会話などまでもが文章で表記されており、映像は目にしていませんが、事の顛末が悲しいくらい目に浮かびました。
冒頭でも触れましたように、日本では年間自殺者が非常に多いのですが、
その多くは報道もされませんし、遺族以外の他人は知ることすらないのですが、
今回ニュースサイトでの記事に上がったのは、
・インターネット掲示板でのトラブルが発端 (遺書もないので公では確定とされていません)
・インターネットでのリアルタイム生放送を利用した、自殺中継
・そして、"自殺幇助"の可能性
などが重なった点もあるのでしょう。
この悲しいニュースを広めるつもりもなかったのですが、
今回の"死"をテーマとした記事を綴るにあたって発端となった出来事が、
この一連の流れであるということを踏まえ説明にあたらせていただきました。
さて、今回の "死"というテーマです。
私は、これまでに身内の他界を何度か経験していますが、
年齢もあってか、死の恐怖や死が身近にある・・・という事を、
まだハッキリと身に沁みていません。
当然、身内や親類を亡くした経験は辛く、とても悲しい出来事でした。
しかしそれは、第三者からの感情による、"死"のイメージであり、
当然のことながら、自身が死を体感するのは、己が死ぬ時しかありません。
しかし、大きな事故や病気などで入院したり意識を失った方は
間接的に"死"に近い体験をされてるのかもしれませんね。
私はまだそういう体験もありませんので、なおのこと分かりません。
あるのは、身内親類の他界や、メディアや文献、インターネットを通しての
"情報"としての、"死"のイメージです。
そんな中、私は特に20歳を超えてから、
"死"というのを真剣に考えるようになりました。
自殺願望という意味ではありません。
生とは何か、
死とは何か・・・
といった概念です。
もちろんこれに答えはないと思いますし、
宗教観念や、科学概念、医学概念、社会通念、個人個人の思想などでも大きく変わることでしょう。
今現在での、私の思う "生" は、 観る/匂う/聞く/触れる/味わうなどの五感から、
食べる、動く、寝るなどの基本欲求、
そして、笑う、泣く、怒る、楽しむ、喜ぶ、などの感情、
そして、考える、悩む、覚える、学ぶ、などの思考、
そして、会話や歌うといったこと、恋したり愛でる愛情・・・
これら全てが、"生"だと思っています。
"生きる"というのは、これらのどれかの組合せを駆使することであり、
その上に個人の信条や、社会通念が乗っかったものだと考えています。
逆に、"死"というものは、これら全てが消えてしまうことなのでしょう。
「死ぬ事は簡単、生きることは難しい」
とよく言いますが、確かにそうかもしれませんが、
私自身は、どんなに辛くても自分の"生"が好きなので、
死にたくありませんし、死も怖いです。
客観的に、「あぁ、このコも生きているんだな」と。
自分という存在がここにあり、
長い間の経験や思い出、出会いにより、自分自身が確かにそこに存在している。
私は現状も胸を張れた生き方もしてませんし、
世間でいう"黒歴史"という恥ずかしい過去もいっぱいあります。
それでも、私は私を好きで、
自分自身が経験してきたこと、思い出など全て含めて愛してます。
つまり、自分という"生"を愛しています。
なので死も怖いし、恐怖でもあります。
更に、一瞬のうちに自分自身を手軽に消し去ってしまう自殺だなんて、もっともっと怖い。
しかし、この世の全て、地球の全てが一瞬にして、
恐怖も痛みも覚悟もなく、知らぬ間にフッと消えてしまうような消え方は、
あまり恐怖ではありません。
この世を残したまま自分だけ消すのが怖いというのは、
もちろん一番愛している自分が無になる事もそうですが、
他には、残された恋人や家族、知り合いの気持ちを考えた時に
それすらも悲しいからです。
他には、未来への夢や野望、執着度合によっても死への拒絶心は増すでしょう。
未来といっても、些細な予定でもいいのです。
明日の食事が楽しみ、TVが楽しみ、または数時間後の読書や
睡眠が楽しみ・・・などでも。
自身を客観的に見て、そこにすぐ先の未来の出来事を楽しみにしているコ(自分)がいるのに、
自分の手で、そのコの未来を奪う・・・だなんて私にはできやしません。
しかし悲しい事ですが、逆に考えてみよう。
もはや今やりたい事も全て済ませ満足し、
将来はおろか近未来でやりたいことも野望も特になく、執着も失せ、
自分以外で自身が消えても悲しむ人が本当に、本当に本当にいなかったとして、
なおかつ、愛する自分の中でも、自身を終わらせる事に同意してしまった場合・・・
想像したら悲しみや恐怖を通り越して、虚無感を感じます・・・
本人はその決意をしたのですから、当然第三者がその選択に介入する余地もありませんね・・・
自殺者の多くは、その決意をした時から気持ちが穏やかになり
一時的に明るくなるとも言いますしね。
なんとも言葉にできません。
しかし、前述した条件が全て揃った方ばかりとも思わないのです。
「やりたい事」については、"有る"けど高確率で実現困難なので諦める・・・ということも
あるでしょうが、
「悲しむ者」が、本当に1人もいないのだろうかな・・と。
もしかしたら本当に誰もいないという方もいらっしゃるかもしれませんし、
いたとしても、自分の死後、周りの者が悲しむ事よりも、
自分の決意を優先したという事に他ならないですしね。
でも、中には一時的な気の動転や気の早まりで、その選択をされた方もいらっしゃることでしょう。
いや、人間である限り、人の心は脆く動じやすいのであることでしょう。
しかし、その一瞬の早まりや動転を、どうにか思い止まり、
数時間か数日間、または数週間かはわかりませんが、躊躇できたら、
また楽しい事や嬉しい事を少なからず体験し、"生"を実感し、
あんな事考えていた時もあったのになぁ~と思える日も来るかもしれません。
実際は、そこが不確定で難しいんですがね^^;
そりゃあ私も、学生時代のイジメや、
公での辱め、屈辱、挫折、失恋など多くの困難を体験してきたし、
何度も気が動転したりして、死にたいと思ったり、未遂に走ったりしたこともありましたが、
"生"の執着や自分愛を思い出したり、一時的な現実逃避で将来の希望や野望を想像したりして
なんとか切り抜いてきました。
そりゃあ、今は満足な生活じゃないし、傍から見れば幼少時や家族と共に暮らした日々の方が私は幸せだったと思われるかもしれませんし、自身もたまにそう感じたりもします。
日々劣化をたどる加齢も辛いですが、それでも過去の経験や思い出(些細な事でもいいんです。
お腹すいた時に食事して満足した事は良き思い出にはなりませんか?)を糧に、
それらの積み上げがあって、良くも悪くも、今の自分自身が存在し、
大事で大好きな自分自身の"生"がここにあり、
現在進行形で文章を綴っている自分も、時間を気にしている自分も、可愛らしく思えてくるのです。
私の今の食事なんて、金欠続きなもので、お茶漬けのみとか
海苔巻きご飯だけ・・とかという日も多いですよ。健康的視点から見ると危険ですが、
それでもお腹が空き、何でもいいから何かを口にし空腹を満たそうとしている自分は・・・あぁ生きているんだな可愛いなって。
でもまぁ、これらの事は、あくまで私自身のことですし、
誰もがこうであるわけでもないし、もちろん思想を押し付ける事もできません。
それぞれの思考は、それぞれです。
一見、ある意味達観してるようにも見えますが、
それでも不健康的な生活ですし、欲求や物欲などの俗物欲求だらけですし、
それらをも覆す事は、今の私には無理でしょうし、覆す必要も感じていません。
いろいろ偉そうな事を綴りましたが、すごく意思の弱い人間ですので・・・(汗
ただし、"生"への執着はまた別です。
しかし社会という枠組みの中では、意思の強さなどが密接に関わってきますよね。
"生"を噛み締めている自分でも、社会の枠で見ればアウトローでしょうし、
一部の宗教的観念から見ても、よろしくないのでしょうね。
当然、社会は辛い場所だとは思いますし、日々大きな風当たりを受けています。
しかし、 自分の"生"に執着する事とは別ではないでしょうか。
しかも社会の枠で扱われるならば、こちらも社会のルールである"法律"を大きく乱していなければ、
なおかつ法律抜きにしても、周りに大きな迷惑をかけていなければ、
私自身が"生"を大事にし、自分を愛でるのも構わないだろうし、
とやかく言われようが、その信念は変えないつもりでいます。
しかし、"迷惑"という概念も、なかなか厄介な存在ですよね。
仮に、私がAさんに対して、迷惑とも何とも思っていなくても、
別の方は迷惑に当てはまるかもしれないし、その逆も然り。
私が迷惑をかけていつもりで信念を持って生きていても、それが迷惑と思う方もいることでしょう。
しかし人間なんて、そんなもんです。
それらを踏まえた上で、同じような思想を抱いた者達とコミュニティを築いたり
出会ったり、または逆の思想がお互いの刺激になって分かち合えたり。
その中で、自身の"生"を噛み締めながら切磋琢磨して生きています。
もしそれら全ても面倒になってしまったら?・・・
うーん・・・難しいですね。私には何もアドバイスもできません。
それそれの意思・思想であり、何も押し付けはできないと言いましたが、
願わくば(あくまで願望)、一時的な周りや環境がどうであれ、自分の"生"を見つめ自分を好きになるところから・・・
という感じでしょうか。もちろん誰もがそうあるべきではないでしょうし、それが正しいというわけではありませんがね。
話が少しまどろっこしくなりましたが、
私は、 死=無 だと考えています。
そりゃ、来世などがあって、
来世はまた人間で、
そして日本で、
今度こそ女の子として生まれたいという願望はあります。
しかし、今を生きる事以上に、来世がある事、人間になれること、
国、そしてその環境や育つ将来が良いか・・など保障も確信もありません。
それならば、今の人生の方が絶対的ですし、現に存在していて、私だけの思想(感情)をもっています。
どんなに辛くても風当たり悪くても、自分が自分の"生"を好きな理由もそこにありますし、
また、その自分が無くなることへの恐怖もあります。
死=無 という考えですが、
たまに想像するのですが、記憶を失った事は経験あるのですが、
その瞬間が永遠に続く・・・二度と目覚めることもない。
例えば、今一瞬目を瞑ったとして、
その一瞬が、音もなく匂いも触感もなく、呼吸もしてない。
思考も感情もなし、時間感覚もなく、その一瞬が、1年も10年も100年、1000年経とうが
一瞬であり、永遠と続く。
むしろ、そういう感覚すら無になる。
命の灯火消えたその瞬間から、自分の思考も感覚も、ほんの一瞬で無になり
あとで目覚めて思い出す事もできない、客観的に見ることも不可、自分が消えて
周りや世間、世界がどうなるかを知ることすらできない。
そのことを悲しいとも苦しいとも感じず、命が消えた瞬間に、
自分自身の全て(=思考や感覚、思い出も感情も)がその時点で、無になる・・・
これって、すごく怖くないですか?
思うに、天国や地獄、輪廻などは現世での行い(業)を死後も背負わせるため、
または簡単に自殺させないため に、作られ語られてきたものではないのかと、
ある思想と同じ事を思っています。もちろん、もしかしたら、あるのかもしれません。
それこそ、死を体験して、 今この全てを終わらせなければわからないことです。
まぁ、そういう云々は、深く語るつもりもありませんが、
私にとっては、それほど、死 が怖いものなのです。
しかし、人間は、誰1人残らず、人生で死を経験します。
その瞬間を迎える時は、今まで積み重ねてきた自分の思い出も思想も、無 になるのが、
今はまだ、怖いのです。せめて、もういいかなと思えるくらいまでは生きてみたい。
長くなりましたが、
自ら死を選ぶ・・・自殺については
そこにいたるまでの苦悩や決意には、人それぞれあるでしょうし、
とても悲しいとは思いますが、否定も肯定もできません。
(身内や知り合いならば、また別になってくるでしょうが・・・)
自分においては、
自殺・・・行動的な面では、例えば今私がここで適当な紐を探し
首を吊る。その瞬間がくれば実施から数分以内で行えてしまう。
そこが怖いのです。言い方を変えると、"生"を大事にしていて、
その気はなくても
時間もかからない数分の行動で、痛みや苦しみもないうちに、
自分自身を無にできてしまう・・・
ちょっと体験してみるということもできない。
何度も言いますが、精神的なことじゃなく、
あくまで行動的な話です。
死ぬは簡単(決断などの精神は別にして行動においては)
こんなに生に執着している自分でさえも、
その数分のプロセスを行えば、 無 になってしまう・・・
という人間の脆さ、儚さが怖いのです。
危険な事に、たまに本当にそんな事で簡単に死んで(無)しまうのだろうかと、
手で首を絞めてみたり紐をくくってみたりすることもあるのですが、
取り返しの付かないことにならぬよう、抑えています。
自殺含め、事故、病気、殺人、災害・・・
平和とか関係なく、寿命を抜きにしても、
人間である以上、死は身近なものなんですね。