監督:トッド・フィールド

キャスト

 ケイト・ブランシェット(リディア・ター)

 ノエミ・メルラン(フランチェスカ・レンティーニ)

 ニーナ・ホス(シャロン・グッドナウ)

 

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「イン・ザ・ベッドルーム」「リトル・チルドレン」のトッド・フィールド監督が16年ぶりに手がけた長編作品で、ケイト・ブランシェットを主演に、天才的な才能を持った女性指揮者の苦悩を描いたドラマ。

 

ドイツの有名オーケストラで、女性としてはじめて首席指揮者に任命されたリディア・ター。天才的能力とたぐいまれなプロデュース力で、その地位を築いた彼女だったが、いまはマーラーの交響曲第5番の演奏と録音のプレッシャーと、新曲の創作に苦しんでいた。そんなある時、かつて彼女が指導した若手指揮者の訃報が入り、ある疑惑をかけられたターは追い詰められていく。

 

「アビエイター」「ブルージャスミン」でアカデミー賞を2度受賞しているケイト・ブランシェットが主人公リディア・ターを熱演。2022年・第79回ベネチア国際映画祭コンペティション部門に出品され、ブランシェットが「アイム・ノット・ゼア」に続き自身2度目のポルピ杯(最優秀女優賞)を受賞。また、第80回ゴールデングローブ賞でも主演女優賞(ドラマ部門)を受賞し、ブランシェットにとってはゴールデングローブ賞通算4度目の受賞となった第95回アカデミー賞では作品、監督、脚本、主演女優ほか計6部門でノミネート。(「映画.com」より)

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(ネタバレ注意)

 とても見応えのある映画である。私は二度観た。もっとも、ストーリーそのものに斬新さはない。ひと言で言うとある分野で頂点を極めた人物がスキャンダルのためにその地位を追われ転落していくという物語である。まあ、松本人志や中居正広を思い浮かべれば、その点はよく似た話である。「映画.com」の紹介にあるように「ドイツの有名オーケストラで、女性としてはじめて首席指揮者に任命され…天才的能力とたぐいまれなプロデュース力で、その地位を築いた」同性愛者のリディア・ターはその権力を利用して自分の教え子の女性たちに性的関係を強要していたが、そのうちの一人であるクリスタの自殺をきっかけにその事実が暴露され、転落していくという物語である。

 では、この陳腐な話を見応えのある映画作品にしているものは何かと問えば、一貫して追求されている「芸術と人間性」というテーマと、そのテーマを完璧に表現しているケイト・ブランシェットの演技にある。おそらくこの映画はブランシェット抜きでは成立しなかったであろう。

 冒頭のかなり長いエンドロールのあと、ニューヨークでのトークイベントに招待されたターがステージの椅子に腰掛け、司会者がターの輝かしい経歴を紹介するシーンが描かれる。それに引き続き、司会者がターに様々な質問をする。その中で彼女の師であるバーンスタインから与えられたものは何かという問いにターは「精神の集中」という意味のヘブライ語の「ガバナ」と答える。つまり、「作曲家の意図とどう向き合うかを教わったのだ」と。また、ペルーの先住民の音楽について「彼らが歌を受け入れるのは歌を生み出した魂と歌手の魂が同化した時だけだ」とも述べる。指揮者としてのターの芸術に対する考え方が端的に表れた発言である。つまり、芸術を生み出した者とそれを伝える者との間の調和がすべてだと。

 この講演のあと、ターはニューヨークのジュリアード音楽院の指揮科の学生たちに特別講義をする。彼女はマックスという男子学生にバッハの音楽について質問するが、彼は自分が有色人種で全性愛者なのでバッハの男尊女卑的な考え方が理解できないし、彼の音楽も理解できないと返答する。ターは彼の考えを全否定し、そんなことは音楽とは全く関係のないことだと反論してパワハラ的な行為をする。マックスは「あなたは最低だ」と言って教室から出て行く。

 冒頭からこの辺りまででほぼ40分なのだが、ターの芸術観がよく分かる展開になっている。要するに彼女は芸術家は素晴らしい芸術を生み出せばよいのであって、どのような私生活を送ろうともそんなことは芸術とは無関係なのだと考えているのである。もちろん、自分がその地位を利用して性生活の相手を得ることも…。しかし、世の中はそれを許さなかった。クリスタの自殺を契機に彼女とクリスタとのメールのやり取りやジュリアード音楽院でのパワハラ行為の映像などがネット上に曝されていく。そこには彼女の教え子で秘書を兼ねているフランチェスカの密かな告発もあった。ターは時折の錯乱状態を伴いながら徐々に追い詰められていき、とうとうその地位を追われることになる。

 ストーリーの紹介がやや長くなったが、この映画の計算され尽くした構成の見事さに唸らされた。やや意地の悪い言い方をすれば「外連」と言ってもいいほどのものである。まず、トッド・フィールド監督はこの映画は二度観ることによって初めて理解できる作品であると言っているように思えるのだ。映画の冒頭、長いエンドロールが流れる。時に取られる手法ではあるが、この映画を見終わったときに観客はその意図を理解するのである。クラッシック音楽界を追われたターは東南アジアのある国に行き、アマチュア楽団の指揮者となり、指揮棒を振るおうとするところで多くの人たちが船室に座っている映像に切り替わる。そして、「君たちに別れの言葉は必要ないな。この船に乗ったらもう戻れない。次に諸君らが降り立つのは新大陸になるだろう。もし覚悟が失われたら引き返すがよい。誰も君を責めない。」というメッセージが流れて映画は終わる。象徴的なシーンであるが、もちろんこれはターに向けたメッセージである。普通に理解すればターはもうクラッシック音楽の世界には戻れないというメッセージになるだろう。しかし、私にはこのシーンは冒頭のエンドロールにつながっているように思われるのだ。そしてターは「新大陸」に降り立ち、この映画で描かれているように栄光と転落を繰り返すのである。ターは決して自分の芸術観を放棄したわけではない。考えてもみよう。ターは栄光の絶頂にあったとき本を出版する予定であった。タイトルは“Tar on Tar”だ。「ターはどこまでも続く」。しかし、Tarを逆に読んでみたらどうだろう。Rat。「卑劣漢」だ。Rat on Rat。トッド・フィールド監督がターの芸術観を肯定しているのか否定しているのか?おそらく否定しているのだろうが、その点は私にはハッキリとは分からなかった。しかし、二度観ることでその味わい深さがよく伝わってくる映画であることは確かである。