監督:マーク・ギル

キャスト

浅野忠信(深瀬昌久)

瀧内公美(深瀬洋子)

古舘寛治(深瀬助造)

池松壮亮(正田モリオ)

高岡早紀(南海)

 

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「イングランド・イズ・マイン モリッシー、はじまりの物語」で知られるイギリスのマーク・ギル監督が浅野忠信を主演に迎え、世界的に高い評価を受け続ける写真家・深瀬昌久の波瀾万丈な人生と、彼の最愛の妻にして被写体であった洋子との物語を、実話とフィクションを織り交ぜながら描いたダークファンタジーラブストーリー。

 

北海道の高校を卒業した深瀬昌久は、父の写真館を継がずに上京する。さまよう日々のなかで、深瀬は美しく力に満ちた女性・洋子と恋に落ちる。洋子は深瀬の写真の主題となり、2人はパーソナルでありながら革新的な作品を生みだしていく。家族愛に憧れる深瀬は洋子の夢を支えるため懸命に働くが、ついに彼女の信頼を裏切ってしまう。深瀬の心の闇は異形の“鴉の化身”へと転生し、哲学的な知性で彼を芸術家の道に導こうとする。

 

天才写真家の狂気と純粋さを浅野が繊細かつワイルドに演じ、「火口のふたり」の瀧内公美が洋子を存在感たっぷりに演じた。(「映画.com」より)

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 実在の写真家・深瀬昌久(1934-2012)をモデルにした作品。寡聞にして私はこの写真家のことをまったく知らなかったのだが、Wikiによると「写真表現を通して「私性」と「遊戯」を追求した写真家として知られる」とある。実在の人物をモデルにしているとは言え、映画である以上、マーク・ギル監督による深瀬像であることは言うまでもない。

 

 「人生は一行のボオドレエルにも若かない」(『或阿呆の一生』)と言ったのは芥川龍之介だが、本作で描かれているのはボードレールになることができなかった男の物語である。なぜ彼はボードレールになれなかったのか。マーク・ギルはその原因を彼の「人生」、つまり妻の洋子を養わなければならないという義務感、さらには父親である助造との確執にあるかのように描いているが、実はそうではない。私がこの映画を通じて見たのは、(深瀬のファンには申し訳ないが)結局、彼にはボードレールになるだけの才能がなかったのだということである。そのことを彼は写真家としての人生の絶頂において思い知らされる。被写体としての妻の洋子の存在なくして彼の写真は成立しなかったのである。彼の絶望が伝わってくる。そして洋子は彼の元を去る。太宰治は小説『葉』の冒頭でヴェルレーヌの言葉を引用して次のように書いている。「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」。深瀬は選ばれてある人であった。その自意識は彼の芸術家としての思いが具現化された巨大なカラスの化身として表れる。しかし、そのことが彼の人生を不安に満ちたものにする。それは自己の才能に対する疑念であり、それが彼をして酒に溺れさせ、助手の正田の前で首つりのまねごとをするという外連となって表れる。いや、あれは本気だっただろう。

 洋子と別れた深瀬は他の女性を被写体として写真を撮る。それは深瀬が求めたものとはまるでかけ離れたものであった。その絶望感の深さは選ばれてある者でなくては理解できないものなのだろう。その後、深瀬はカラスを被写体とした写真で小さな成功を得る。しかし、それはもはや深瀬の求める作品ではない。久しぶりに再会した洋子はその写真を見て言う。「私にはあなたの肖像に見える」。ある意味、残酷な言葉だ。しかし、それは誰よりも深瀬を愛し、彼を理解していた人の言葉が持つ真実なのだ。この映画は深瀬と洋子の愛の物語でもある。愛の物語?いや、「愛憎相半ばする」物語と言ったほうが正確だろう。

 深瀬を演じた浅野忠信と洋子を演じた瀧内公美の演技に引き込まれた。この映画はこの二人の存在がなければもっと薄味な作品になっていただろう。それだけではない。深瀬の父親役の古舘寛治、深瀬の助手役の池松壮亮、バーのママ役の高岡早紀もそれぞれ味わい深い演技であった。マーク・ギルのキャスティングの素晴らしさにも注目したい。