伊吹亜門という作家はまったく知らなかったのだが,新聞の書評欄の書評を読んで食指が動いた。早速図書館で検索してみると何と60人以上もの予約が入っていて,仕方なく購入することに。歴史上の実際の出来事をベースに虚実綯い交ぜになったミステリーで,結構好きなジャンルの物語である。

 

 1935年8月12日,陸軍歩兵中佐・相沢三郎が陸軍省軍務局長・永田鉄山少将を陸軍省の永田自身の部屋で斬殺した歴史上有名な事件が物語の発端である。そこから,1936年2月26日の青年将校たちの決起,つまり「二・二六事件」が勃発するまでの期間に起こっていた「もう一つのミステリアスな事件」が物語の中心である。

 永田鉄山斬殺事件には架空の人物が数人登場する。相沢が永田の部屋に行く途中で出会い廊下で話をする古鍛冶兼行陸軍歩兵大佐,それに相沢が永田を襲ったとき偶々永田を訪問中であった六角紀彦憲兵大佐と山田長三郎大佐である。山田は難を逃れたのだが六角は自身も重傷を負ったのである。

 物語の主人公で憲兵大尉の浪越破六は永田事件のあと教育総監・渡辺錠太郎陸軍大将から密命を受ける。当時,陸軍内部は皇道派と統制派の派閥争いが激化しており,渡辺によれば「一部の中堅幕僚が,皇道派に与する振りをして若手青年将校らを煽り,直接行動を起こすように唆しているのだ」という状況で,皇道派の六角紀彦と古鍛冶兼行の身辺調査をして欲しいというものだった。しかし,その数日後,浪越が陸軍省の古鍛冶の部屋を訪ねていったとき,古鍛冶は斬殺死体で発見され,その側には銃を口にくわえた状態で米徳平四郎陸軍歩兵少佐が亡くなっていたのだ。以上がごく序盤の展開だが,物語はここから様々な人たちが絡むミステリアスな展開を見るのである。

 

 タイトルにある「路地裏の」とは本の帯に書かれている「青年将校たちの決起の裏で起きていた」という意味であり,この部分がフィクションなのであるが,それを史実である冒頭の永田将校暗殺事件の中に架空の人物を設定することによって終幕のこれも史実である「二・二六事件」へと繋いでいき,後半に行くにしたがってその「路地裏の事件」も広がりを見せる展開に著者の技量が感じられる作品である。それとともに主人公の浪越と陸軍士官学校時代からの親友である麦島義人への友情と疑念が交差する中で「二・二六事件」へとなだれ込んでいくくだりなど,当時の実際の人間同士の間にもこのような関係があったのではないかと想像させられ,その時代を思わずにはいられなかった。一方で物語の展開にはやや荒っぽいところもあり,例えば「路地裏の事件」に至る動機など,分からないではないが,やや説得力に欠けるように思われたし,架空の人物ではあるが国家主義者の碓氷東華が全くの俗物として描かれているのも興が殺がれるように思われた。もっとも,実在の北一輝を登場させるのは無理があるとは思うが…。

 「二・二六事件」も収束した終盤,浪越と麦島の妻妙子が靖国の石段の下で話をするくだりがある。「この国は,これからどうなって行くんでしょうね」と問う妙子に浪越が答えるシーンだ。「皇道派は一掃され,陸軍は統制派の思想で意思の統一が図られるでしょう。かつて永田閣下が望まれたように国は重工業財閥を抱え込み,全国民を巻き込んだ総動員の戦争体制構築へ向かう」「戦争になりますか」…。

 たしかに我が国は翌1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に突入し,やがて太平洋戦争へと向かったのである。ストーリーの展開とはあまり関係がないやり取りであるが,上のセリフはなぜか印象に残ったのである。