山本圭『嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する』

               (光文社新書 2024年)

 

 

  嫉妬という感情はなんとも厄介なものだ。以前,テレビの対談番組を見ていた時にある高名な思想家が「自分は20歳の時に嫉妬の感情をうまく封じ込めることに成功した」という発言をしたので少し驚いたことがあるのだが,通常は嫉妬心は誰にでもある感情のように思えるし,小説や映画でも嫉妬を扱った作品は枚挙に暇がない。本書の著者である山本圭も「どうやら嫉妬するのであれ,嫉妬されるのであれ,総じてこの感情を回避して生きることは容易ではなさそうだ」(p.36)と述べている。

 

 嫉妬という感情は様々な観点から扱うことができるが,本書はそれを学術的な観点から扱うことを目指している。学術的に扱うとすれば通常は社会心理学という分野が考えられるが,著者の山本圭は政治学の研究者であり,したがって,本書では嫉妬という感情が政治や社会生活といかに関わっているかという観点からそのテーマが扱われることになる。具体的には嫉妬と民主主義との関係である。

 

  まず「嫉妬」とはどういう感情なのかということについて,著者は,嫉妬とは「他人の幸福が自分の幸福を少しも損なうわけではないのに,他人の幸福をみるのに苦痛を伴うという性癖」(p.41) であるというイマニュエル・カントによる定義付けを紹介し,それを次のようにパラフレーズする。

 「嫉妬者は自分の損得とは無関係に隣人の幸福を許すことができない。つまり,彼(女)は自分の利得を最大化しようとしているわけではないのである。むしろ逆である。彼(女)はたとえ自分が損をしようと隣人の不幸を願う。嫉妬は功利主義的な快楽計算にはしたがわず,そうした自暴自棄さはある意味で,すがすがしくさえ感じるほどだ。」(p.41)

 次に嫉妬を抱く人とはどのような人であり,嫉妬の対象になるのはどのような人であるかという点について,著者はアリストテレスを引き合いに出して次のように言う。つまり,前者に関しては「自分と同じか同じだと思える者がいる人々」(p.43)であり,後者に関しては「時や場所や年配,世の評判などで自分に近い者」(p.43)である。要するに,嫉妬の感情が生じるのは自分を他人と比較するときである。つまり,「嫉妬の感情は比較可能な者同士のあいだに生じるのである」(p.44)。

 以上が嫉妬とは何か,またその感情はどのような時に生じるのかということについての著者の説明であるが,著者によれば,さらにこの感情にはそれに関わる恐怖が三つ存在する。それは,①他者から嫉妬されること,②自分が嫉妬していると他者に思われること,③自分が嫉妬していることを自分で認めることである。では,このような恐怖を回避する戦略にはどのようなことがあるだろうか。①に関しては隠蔽,否認,賄賂,共有と言ったことが挙げられる(pp.66-71)。 ②に関しては自分が嫉妬していないことを行為で示すことが必要であり(p.73),③は自分が嫉妬している人間に対して劣等感を持っていることを認めることになるので,例えば運が悪かったなどと,その原因を自分以外の別のものの責任に転嫁するといったことが挙げられる(pp.74-75)。

 

 さて,本書の中心的なテーマである嫉妬と政治との関係であるが,著者はまずジョン・ロールズの有名な『正義論』を検討する。ロールズによれば,「敵意に満ちた嫉み」が生じる条件は三つあるが,公正な社会はそのような条件を緩和し,嫉妬に対する十分な免疫を備えているので,「嫉妬は存在したとしても,決して深刻な問題にはならない」(p.178)ということになる。このようなロールズの主張に対して小坂井敏晶は次のように批判する。社会制度が公正である場合,私たちは自分の待遇が悪いのは自分の能力が低いからだと考えざるを得ないが,私たちはそれを受け入れることができるだろうか,と。また,ロールズの公正な社会において格差が減少すると,小さい差異が耐えがたいものになるのではないだろうかという批判も存在する。そもそも嫉妬とは不合理な感情であり,「ロールズの議論は,こうした人間の不合理な次元を十分に捉えられていない」(p.181)ということになる。

 上のロールズの主張とそれに対する批判は「嫉妬と民主主義」と題された第5章のテーマに通じる。結論を先取りすると,著者は次のように述べている。

 「嫉妬の行き過ぎは,他者への信頼を損ない,社会を分断するかぎりで,民主主義を脅威にさらすに違いない。しかし,… 嫉妬は民主社会においてこそ本領を発揮する。より正確に言えば,民主主義こそ人々の嫉妬心をいっそう激しくかき立て,それを社会に呼び込む当のものなのだ。本章では,嫉妬と民主主義の関係について考察するが,それは単に嫉妬の抑制を説くことを目的とはしていない。むしろ嫉妬の両義性を示すことで,この感情との付き合い方の常識を根本から揺さぶることを目指したい」(pp.204-205)。

  民主主義の重要な価値観として「平等」が挙げられるが,この「平等」とか公正さの要求が嫉妬から生じたものであることを指摘したのはジークムント・フロイトである。つまり,「嫉妬は正義や公正さに自らを偽装し,相手を『引き下げる』ことで自分を慰める」(p.216)のではないかということである。現代のリベラル派にとっては居心地の悪い議論ではあるが,この点に関して著者は結論を保留している。

 さらに,民主主義における平等の理念は別の仕方でも嫉妬の問題と関わっている。それはアレクシ・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』において指摘しているように「民主的な平等が人々のあいだに嫉妬感情をもたらす」(p.218)ということである。平等化以前の社会においては人々は主人を自分と同等な存在とはみておらず,したがって,不平等を当然のこととして受け入れているので嫉妬心が生まれることはないが,「他者を自分と同類とみなす想像力」(p.219)が解放されるようになると不平等に正当性はないものと認識され,嫉妬という感情が生まれる。この平等と差異こそが民主主義の構成要素である以上,「嫉妬が民主的な社会において不可避であること」(p.220)は容易に理解できる。要するに,「嫉妬は私たちのデモクラシーの条件かつ帰結ということになる」(p.220)のである。

 さて,著者が言うように,民主的な社会においては嫉妬は不可避であるのならば,私たちは嫉妬とどのように向き合えばよいのだろうか。確実に言えることは,もし仮に嫉妬が禁止されて完全な平等社会が到来したとすれば,著者も言うようにそれは「一種のディストピア」だということだ。したがって,著者の結論は「民主社会はこの感情(=嫉妬)を受け入れる必要がある」(p.231)ということである。私もこの結論には同意だが,「受け入れる」ということがはたしてどのようなものであるのか,また受け入れた上で嫉妬心をある程度緩和するにはどうすればよいのか…。なかなかの難問ではあるが,著者が示すところは,社会的には「多元的な価値観を許容する社会」(p.240)を目指すということであり,また私たちが他者との比較をやめられないのであれば,比較を徹底してみることによってねたましく思う隣人の意外な事実が目に入り,嫉妬心もかなり緩和されるのではないかということなのだが…。もちろん,著者自身も認めているように,これとて万能であるとは言えず,「嫉妬心が完全に社会から,あるいは私たちから消え去ることはないであろう」(p.244)。そうだとすれば,本書の締めくくりにおいて著者が書いているように,私たちは「怒りや悲しみといった人間味ある感情がそうであるように,嫉妬もまた私たち人間の条件」であると思ってできるだけそれを飼いならす工夫をするより仕方がないのであろう。

 

 以上,本書の中心的なテーマである「嫉妬と民主主義」を中心に著者の主張を見てきたが,本書はそれ以外にも,「嫉妬」と「ジェラシー」,「ルサンチマン」,「シャーデンフロイデ」といった概念との異同,さらには(一部は紹介したが)「嫉妬」に関するヨーロッパや日本の古今の思想家たち(プラトン,イソクラテス,プルタルコス,トマス・アクィナス,ベーコン,カント,マンデヴィル,ヒューム,ルソー,ショーペンハウワー,ニーチェ,マーサ・ヌスバウム,福沢諭吉,三木清など)の考え方の紹介,嫉妬と対をなす「誇示」などについての考察にもページを割いており,今後のさらなる展開も含めて興味深い書物である。