(第1回からのつづき)
4章 満州事変と日中戦争(日本切腹,中国介錯論)
この章では1931年9月18日に起きた満州事変と,1937年7月7日の小さな武力衝突(盧溝橋事件)をきっかけとして起こった日中戦争が扱われる。
初めに,当時の人々の戦争に対する意識がどうであったかということが検討される。その史料として,満州事変の2ヶ月前に東京帝国大学(東大)の学生に対して行われた「満蒙のための武力行使は正当か?」というアンケートに対して,88%の学生がYESと回答していたというエピソードを紹介し,国民の中に戦争に向かっていく意識が蓄積されていたと結論される。(この傾向は,満州事変のあとで,東大生に対して行われたアンケートでもあまり大きな変化はなかったらしい。)加藤によれば,「この了解,一致点がどのような過程で国民の意識の中に蓄積されてくるのか」(p.263)ということも一つのテーマである。さらに,日中戦争に関しては,日本のエリートたちが,これを戦争ではなく,「報償」とか「革命」と捉えているが,そのような捉え方が生まれる背景も考察の対象だとされる。
まず,満州事変からであるが,加藤は,松岡洋右の演説の一節,「満蒙は我が国の生命線である」を引用する。満蒙とは南満州と東部内蒙古を合わせた地域を指すが,加藤は「なぜ1930年ぐらいになると,この地域が日本にとって切っても切れない関係になるのか」(p.267)ということを考察する。そもそも,この満蒙という範囲は日露戦争後,ロシアとの間で取り決めたものであるが,1917年のロシア革命によって政治体制が変わり,また,中国も清朝が倒壊して中華民国が成立する。その結果,条約締結時において解釈が異なっていた点がグレーゾーンとして残ることになったのである。この場合のグレーゾーンは,南満州鉄道の沿線に鉄道守備兵を置く権利と,満鉄の平行線を中国側は敷設できないという取り決めである。中国側はこれを認めないのであるが,日本の陸軍のなかには,話し合いによってこれに決着をつけることを否定する雰囲気が醸成されており,「中国の条約違反によって,日本の生存権が脅かされる」と言って国民を煽ったのであり,その煽りに乗る国民も増えていったのである。しかし,これは軍の国民向けのアピールであって,軍人たちは来たるべき対ソ戦と対米戦を戦う基地として満蒙を位置づけていたのである。さらに,1929年恐慌も国民の不満に火をつけることになった。
以上,軍人たちは満州事変を起こす本当の意図とは別の「条約論・法律論」で国民の不満をたきつけながら進んでいくのであるが,このような不満が上に述べた東大生の意識にも反映されていると言えるであろう。
加藤の説明によれば,満州事変はいくつかの経過を辿りながらも,結局,現地の軍隊の独断専行を内閣の閣議決定が追認するという形になったということである。なぜそうなったのかについての加藤の説明は,「現在の研究からわかっているのは,若槻内閣が出先軍の造反に対して,きっちりと結束していなかったことが一つ挙げられます」(p.290)ということである。日本側のこのような動きに対して,蔣介石は国際連盟に訴えるという選択をする。これを受けて連盟は1931年12月10日,リットン調査団を派遣する。調査団の報告書は1932年10月2日に公表される。それは日本の経済的権益に配慮したものとなっており,「日本の要求が経済的なものに留まっているならば,リットン調査団が用意した処方箋は効果的だった」(p.296)。しかし,この報告書は,満州が中国の主権下にあることを認めることを要求しており,それは日本にとって受け入れられるものではなかった。結局,日本は連盟を脱退することになるのだが,そこに至るプロセスはそれほど直線的なものではなかった。その経過についての加藤の説明は以下のようである。
連盟脱退時の外務大臣であった内田康哉は「焦土外交」発言に見られるように,満州国の権益に関して強硬な姿勢をとるが,その本心は,中国の宥和派が直接交渉に乗り出してくることを見越したものだった。ところが,1933年2月,陸軍は熱河省に入り込んでいる張学良の軍を追い払うということで,熱河省に軍隊を侵攻させるのである。陸軍の意識としては,満州国内の軍隊を動かすだけであるということであったが,満州が中国の主権下にあることを認め,和協案を提議している最中の連盟の側から見ると,日本は連盟国の敵と認定され,経済制裁や除名の対象になるのである。日本の連盟からの脱退は,そういう不名誉を避けるためであったと言える。
上にも述べたが,日中戦争に際して,日本のエリートたちが,これを「報償」とする捉え方が生まれた背景を明らかにすることがこの章のテーマの一つだとされている。私には,それがあまり明確に理解できなかったのであるが,満州国に対する陸軍のこのような認識がその背後にあると考えてよいのだろうか。
日中戦争が勃発したのは1937年であるが,満州事変の1931年から1937年の間に何が起こったのかということが考察される。それは,一言で言うと,政党政治が国民,特に農村の要求をほとんど実現できず,それを実現する方向を示したのは陸軍だったということである。しかし,それは戦争が始まれば全く実現されないことであったが,加藤は,「政治や社会を変革してくれる主体として陸軍に期待せざるをえない国民の目線は,確かにあったと思います」(p.317)と述べている。これは私には興味深い指摘であった。たしかに,この時代はテロリズムが横行し,政党政治が機能しなくなっていったのは事実だとは思うが,だからといって,軍部が物理的な圧力によってのみ政治に介入することは困難であり,いわばポピュリズムとも言えるやり方で国民を戦争へと組織していくことが有効な方法であったということだろう。
ところで,この章のサブタイトルは「日本切腹,中国介錯論」であるが,これは1938年に駐米国大使になった中国の胡適の言葉である。加藤は,中国にとって,アメリカとソ連を戦争に介入させることが必須であり,そのための胡適の方法を非常に高く評価している。加藤の評価は,もちろん国家的戦略という側面に注目してのものであることは理解できるし,その意味では,胡適の指摘はたしかに鋭いとは思うが,あまりにも多くの犠牲者が出ると思われるこの方法は私には疑問であった。(もちろん,論点のずれた評価になっていることは承知しているが…。)
5章 太平洋戦争(戦死者の死に場所を教えられなかった国)
本章では,まず2つの問いが提示される。1つは,日本とアメリカには圧倒的な戦力差があるのに,日本はなぜ戦争に踏み切ったのか,また,それをどれだけの人が知っていたのかということである。2つ目は,日本軍は戦争をどのように終わらせようとしていたのかということである。
第1の問いから見ていくと,一般の人たちの間でも,圧倒的な戦力差があるということは知られていた。しかし,「それでも」人々は戦争を支持した。それは日中戦争と違って,太平洋戦争は明るい気持ちになれたからである。加藤は,これが開戦時に多くの日本人が持っていた感覚であるということを史料に基づいて説明する。しかし,加藤によれば,以上の点は第1の問いに対する答えの半分であるということになる。残りの半分はやはり国家戦略的な観点からの説明になる。
加藤の説明を理解するには,当時の年表があると便利だと思われるので,加藤の記述に基づいた年表を作ってみた。それは,以下のようである。
1937. 8. 21 中ソ不可侵条約の締結
1938. 12 アメリカが中国に対して2500万ドルの借款を行う
1939. 1 アメリカが航空機とその部品の対日輸出を禁止する
1939. 3 イギリスが中国に借款を行う
1939. 7. 26 日米通商航海条約の廃棄
1939. 9. 3 ドイツのポーランド侵攻に対して,英仏がドイツに宣戦布告(第2次大戦の開始)
1940. 6. 13 ドイツによるパリ占拠
1940. 9. 22 日本,北部仏印に進駐
1940. 9. 27 日・独・伊三国同盟の締結
1941. 3 アメリカ,武器貸与法を可決
1941. 4 ハル国務長官との日米交渉のために陸軍軍務課長をアメリカに派遣
1841. 4.13 日ソ中立条約を締結
1941. 7. 28 アメリカ,飛行機100機とパイロットを中国に送る。
1941. 6. 22 独ソ戦の勃発
1941. 7.25 アメリカ,在米資産の凍結
1941. 7. 28 日本,南部仏印に進駐
1941. 8. 1 アメリカ,石油の対日全面禁輸
上の年表でわかるように,日中戦争が拡大するにつれて,ソ連は日本との軍事的対立に備えるため,アメリカ,イギリスは中国における自分たちの権益を守るため,中国に対する援助を行うようになる。これに対し,日本は米英の中国への援助物資を運ぶためのルート,いわゆる援蔣ルートを閉鎖するために,フランス領インドシナ(仏印)に飛行場を確保すべきだと考える。つまり,日本は日中戦争を早く終わらせるために仏印への進駐を計画するのであるが,これには,さらに,日中戦争が長引いたときには戦争継続のための資源を東南アジアに求めるという理由もあったのである。日本側の意図としては,ヨーロッパ戦線においてドイツがフランスを占領下に置いた以上,ドイツの傀儡政権であるヴィシー政権との交渉は容易であるということであったと考えられる。以上のような経過をみると,米英ソの中国に対する援助が日本を太平洋戦争へと追い込んでいったと考えられるかもしれないが,加藤はそのような考えをきっぱりと否定する。「日本における国内政治の決定過程を見れば,(太平洋戦争は)あくまで日本側の選択の結果だとわかるはずです」(p.357)。では,太平洋戦争に至るまでの過程を,加藤はどのように説明してるのだろうか。
まず,ヨーロッパの戦争に対する日本の方針転換が挙げられる。日本はヨーロッパの戦争には不介入の方針をとっていたが,ドイツの進撃を見て,参謀本部は,蔣介石が和平に応じない場合には持久戦を戦い抜くための資源,具体的にはオランダ領インドシナの石油を獲得するために武力行使をし,南方に自給自足圏を構築しようと考えるのである。「これまで対ソ戦だけを重視してきた参謀本部の考えが,ここでまずは変わったといえます」(p.358)。一方,陸軍省軍務局はアメリカと交渉して日中戦争の仲介役をやらせようと考え,1941年4月,ハル国務長官との日米交渉のために陸軍軍務課長をアメリカに派遣するのである。ところが,1941年7月2日に開かれた御前会議において,日本の南部仏印への進駐が決定されることになるのである。このプロセスについての加藤の説明は非常に興味深い。
1941年4月13日,松岡洋右外相は,ソ連の中国への武器援助を辞めさせるためにソ連との間に日ソ中立条約を結ぶ。松岡は「三国同盟+ソ連」というプランを考えていたのだが,6月22日,独ソ戦が勃発し,そのプランは崩壊する。そこで,松岡は,一転,「ドイツがソ連を攻撃している間に,日本もソ連の背後からドイツと一緒になって攻撃してしてしまおうといいだす」(p.362)のである。この時点で,それまで南進論を唱えていた参謀本部が方針を転換し,松岡の北進論に乗るのである。この北進論に戸惑ったのが,日米交渉の可能性を信じていた陸軍省軍務局と海軍で,北進論を押さえるために南部仏印への進駐を主張し出すのである。彼らは,南部仏印に進駐しても,そこはフランス領である以上,アメリカが「強い報復措置に出るとは全く考えていなかった」(p.364)のだが,アメリカは,彼らの予想に反して,日本の在米資産の凍結と石油の対日全面禁輸という強固な措置に出たのである。それについて,加藤は次のように述べている。「ソ連が日本(からの攻撃)を心配しないで済むように,そのために強い反応を示したと言えます。」(p.365)
以上が,日本が太平洋戦争に突き進んでいったプロセスに関する加藤の説明である。当時の日本は,「指導者たちも国民も」,アメリカとの戦力差を認識していながら,「それでも」国家的戦略という観点から見た場合,戦争への道を「選択」せざるを得なかったと言えるだろう。加藤のこの説明を前提にした場合,私には,当時の日本の戦略がヨーロッパの戦争の状況によって決定される,つまり他者依存的であったという点に問題があったのではないかと思われるのである。そして,この点は「日本軍は戦争をどのように終わらせようとしていたのか」という第2の問いに関わることでもある。加藤は次のように述べている。
「…ドイツとソ連の間を日本が仲介して独ソ和平を実現させ,ソ連との戦争を中止したドイツの戦力を対イギリス戦に集中させることで,まずはイギリスを屈服させることができる,イギリスが屈服すれば,アメリカの継戦への意欲が薄れるだろうから,戦争は終わると。すべてがドイツ頼みなのです。また,イギリスが屈服すれば,アメリカも戦争を続けたいと思わないはずということで,希望的観測をいくえにも積み重ねた論理でした」(p.342)。これが当時の日本が考えていた戦争を終結させる方法だったのである。
岩波書店から『日本近現代史①~⑩』(岩波新書)というシリーズが出版されているが,その第⑤巻「満州事変から日中戦争へ」を加藤陽子が執筆しており,その「あとがき」で加藤は,このシリーズのポイントは,家族,軍隊,植民地であるとした上で次のように述べている。
「この尺度でいえば,筆者の巻は赤点だろう。軍隊については嫌というほど書いた。植民地については,帝国内の経済秩序の文脈で言及したくらいであり,家族にいたっては索引に拾えないだろう。戦争の時代にあっての家族の問題については,優れた研究の多い分野であるだけに,自らの非力には,忸怩たる思いがある。
書けなかった理由は,家族を主語としてこの時代を描く覚悟と力が筆者になかったことによる。家族も大切だったというのではなく,家族は大切だったといいうる視角がなんとしても思い浮かばなかった。」(p.242)
「戦争と家族」について,加藤が2冊の書物の名を挙げて指摘しているテーマは,日中戦争の銃後における女性の組織化であり,戦争遺族に対する国家や地域の処遇の仕方などである。『それでも,日本人は「戦争」を選んだ』においても,「戦争と家族」の問題については,全くと言ってよいほど触れられてはいない。本書は,そのタイトルだけを見ると,明治以降に行われたそれぞれの戦争において,戦争へと向かっていった「日本人」の心性や,家族のあり方,またその方向へと導いた指導者,ジャーナリズムなどの問題を分析した書物ではないかと思われるかもしれないが,読み始めるとすぐに,その予想が見当外れなものであることが分かる。本書は,主に国家戦略的な観点から,「日本人」が明治以降,それぞれの戦争を選択せざるを得なかった論理を明らかにするということに重点が置かれた書物なのである。そして,そのことが本書の長所でもあり,また,短所でもある。本書は,主に国家の指導者が何を考え,どのような論理でもって戦争に突き進んでいったのかを史料に基づいて明快に分析しており,その意味では大いに知的刺激を与えてくれる書物であると言えるだろう。しかし,その一方で,本書を読んでいると,まるで将棋の棋譜を見ているような錯覚にとらわれたような気分にもなるのである。私は,本書を読む前の問題意識として,タイトルの「それでも」と「日本人」にこだわりたいと思ったのだが,筆者が私のこの疑問に答えてくれたのかどうかに関しては,なお判然としないものが残ると言わざるを得ないのである。(おわり)
