東京駅には大正~昭和の時代にテロの犠牲になった2人の首相の襲撃現場を示すプレートが貼り付けてある。そのうちの1人は原敬である。

 原敬は,192111月4日,東京駅構内で刺殺された。暗殺現場となったのは,現在の丸の内南口で,そこには壁に事件を説明したプレートが張ってあり,床にはその現場を示す印がつけられている。

 

 

丸い点が暗殺現場

 

 原敬を暗殺したのは大塚駅の転轍手だった中岡良一という18歳の青年だった。その動機や背景については様々なことが言われているが,武田春人『日本の歴史⑲ 帝国主義と民本主義』(集英社)には,次のように述べられている。

 

 デモクラシーや「文化生活」の華やかさの陰で,沈殿し鬱積している不満が,テロリズムによる「解決」という形を表し始めていた。それは,震災後の「亀戸事件」や「甘粕事件」にも通じる「暗い時代」の前兆であった。 

 力への過信,政治への不信が生じた背景には,暗殺犯が反感をらせた腐敗があった。選挙権の拡張と小選挙区制の採用によって,衆議院で469議席中279議席という圧倒的多数を得ていた政友会を基盤とする原内閣は,院の内外における普通選挙実現の要求などを拒否し,多数の力によって政局を乗り切っていた。しかし,その力の政治の基盤となる多数派の維持は,いわば「金権政治」に通じる金のかかるものであり,そこにはたえず腐敗の危険がひそんでいた。(pp.232-233)

 歴史から学ぶことは少なくない。

 

 もう一人の犠牲者は浜口雄幸である。浜口雄幸は19301114日,東京駅で右翼団体愛国社の佐郷屋留雄によって銃撃を受けて重傷を負ったものの,一命を取り留めた。しかし,翌年の8月,無理がたたって死亡した。浜口雄幸が狙撃された現場を示すプレートと目印は,駅構内中央通りから新幹線改札口に上る手前にある。

 

 

この階段を上がっていくと新幹線の改札口に至る。

 

 浜口内閣と言って思い出されるのは,金輸出解禁と統帥権干犯問題である。浜口内閣は,為替相場の安定をはかるため,1930年1月,金解禁を実施し,金本位制に復帰する。それに先だって,緊縮財政を推し進め,デフレ政策を実施するが,この金解禁は,1929年のニューヨーク・ウォール街での株式の大暴落に端を発する世界恐慌の最中に行われたため,国際物価は国内物価以上に下落しており,輸出は伸びず,のちに「荒れ狂う大暴風雨に向かって雨戸を開け放ったようなもの」と批判されたように,正貨の大量流出をもたらし,深刻な恐慌状態を招いたのである。一方で,浜口内閣は幣原喜重郎外相のもと,対外協調路線をとり,1930年4月,ロンドン海軍軍縮条約に調印するが,これをめぐって,政友会は軍部と手を握って,統帥権の干犯であると浜口内閣を攻撃した。浜口首相狙撃事件は,このような時代背景の中で起こったものと言えるが,政党が軍部と手を組んで他の政党を攻撃するという事態は,政党政治の終焉を象徴するものであり,以後,1931年の満州事変を出発点として,時代は大きく転換していった。満州事変は今から88年前の今日(918日)の出来事である。

 

「すべての歴史は現代史である」(ベネデット・クローチェ)