監督:オーソン・ウェルズ
キャスト: オーソン・ウェルズ / ジョセフ・コットン / ドロシー・カミンゴア
荒廃した壮大な邸宅の内で,片手に雪景色の一軒家のあるガラス玉を握り,“バラのつぼみ”という最後の言葉を残し新聞王ケーン(オーソン・ウェルズ)は死んだ。死後のケーンに与えられた賛否の声は数多かったが,ニュース記者トムスンは“バラのつぼみ”の中にケーンの真の人間性を解く鍵があると信じ彼の生涯に関係のある人々に会うことになった。ケーンが幼少の頃,宿泊代のかたにとった金鉱の権利書から母親が思わぬ金持ちになった。そのために彼は財産の管理と教育のため,片田舎の両親の愛の中から無理矢理にニューヨークに押し出された。やがて青年になったケーンはかねてから興味を持っていた新聞経営にのりだした。先ず破産寸前のインクワイアラー紙を買いとり友人の劇評家リーランド(ジョセフ・コットン)とバーンステインの協力を得て完全に立ち直らせた。さらに斬新で強引な経営方針と暴露と煽動の編集方針で遂にニューヨーク一の新聞に育てあげた。読者を楽しませるが決して真実を語らぬ彼の態度を友人は諌めるが,飛ぶ鳥も落とすケーンの勢いには全く通じなかった。世界第6位という財産をバックに報道機関をことごとく掌中にし,彼の権力はもはや絶対的なものになった。一方大統領の姪エミリー(ルース・ウォリック)をしとめるに至り知事から大統領への座は目前のものとなった。しかし圧勝を予想された知事選挙の数日前に,オペラ歌手スーザン(ドロシー・カミンゴア)との情事をライバルに新聞紙上で暴露され形勢を逆転された。それと同時に妻エミリーはケーンのエゴイズムに耐え切れず去っていった。離婚,落選という初めての挫折にケーンは狂ったようにスーザンに全てを集中した。彼女の素質も考えず巨大なオペラ劇場を建て自分の新聞で大々的に宣伝をしたが,それはかえって彼女を重圧から自殺未遂へと追いやってしまい,遂には彼女も去っていった。そして1941年孤独のうちにケーンは死んだ。ー―トムスンの努力にもかかわらず“バラのつぼみ”の意味はわからなかった。彼の死後身辺が整理されおびただしいがらくたが暖炉に投げこまれた。そのなかの1つ幼少の頃に遊んだソリが燃えあがる瞬間,ソリの腹に“バラのつぼみ”の文字が現れた。(「映画.com」より転載)
久しぶりに『市民ケーン』を見た。以前見た時よりもはるかに面白かった。それは,この映画にまつわるあれやこれやを「予習」してから見たからだと思う。そして,感想を一言で言うなら,これはオーソン・ウェルズを感じる映画だということだ。どう感じるかって? そりゃ,「才能のある奴はうらやましい~~~!」ってことでしょ。
「予習」をしたと言っても,ネット検索をすれば手に入る情報ばかりなので,素人の私がここであれこれ言うのもおこがましいと思うが,少しだけその点について述べてみたい。
まず,ケーンのモデルとなった人物が実在する。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハースト(1863-1951)である。ハーストは記事の捏造なども含むセンセーショナルな報道で,全米に一大新聞網を築き上げただけではなく,映画制作やラジオなども含むメディアを完全に支配したメディア王である。『市民ケーン』では,「バラのつぼみ(Rose Bud)」という言葉がキーワードになるのだが,脚本を書いたハーマン・マンキウイッツは,ハーストが,愛人の女優マリオン・デイヴィスの性器を寝室で「バラのつぼみ」と呼んでいたことをよく知っていたのである。映画の内容も含めて,ハーストは激怒し,メディア王として,あらゆる手段を用いて『市民ケーン』の上映妨害運動を行い,この映画のアカデミー賞受賞を妨害した。そのため,オーソン・ウェルズはその後,ハリウッドから干されていくことになるのだが,この映画を撮った当時,オーソン・ウェルズは弱冠25歳であり,才気あふれる若者が権力者を挑発してやろうなんて思いながら,自由気ままに映画を撮っていたと想像するだけで,私は痛快な気分になった。(ただ,そのために,その後,オーソン・ウェルズの才能がハリウッドによって潰されてしまったことを思うと,残念な気持ちになるが…。)また,この映画は,パン・フォーカス,長回し,ローアングルを多用したという点でも画期的な映画だと言われているが,ど素人の私が撮影技術に関してあれこれ言うのは,さすがにはばかられるので,その点は控えておきたい。(アンドレ・バザン『映画とは何か』(邦訳 岩波文庫上・下)の中で「『市民ケーン』はどれほど評価しても,過大評価にはならないだろう」(上巻p.122)と述べられていて,この映画の撮影技術についての説明がなされていた。)
この作品に関しては「バラのつぼみ」の意味と,映画のタイトルの「市民」が何を意味しているのかという点について考えてみたい。
★★★「バラのつぼみ」とは?★★★
この映画のポイントは,ケーンが死ぬ間際につぶやいた謎の言葉「バラのつぼみ」の意味を探ることにある。映画は,ケーンと関わりのあった人たちが,それぞれの視点から「ケーンとはどんな人物だったのか?」ということを語るという構成になっている。その過程で浮かび上がるケーン像は,大成功した人間にありがちな,強引で,相手の気持ちを考えない自分本位な男だということである。そのために,ケーンと関わった人たちのほとんどが,最終的には彼から離れていき,結局,ケーンは自分が築いた莫大な富に囲まれて,孤独のうちに死んでいったのである。
リーランドはケーンに言う。「“愛してやるから愛し直せ。”これが君のやり方だ。」
スーザンとケーンの会話。
スーザン「歌はやめるわ。もううんざり。」
ケーン「歌は続けるんだ。でないと,私が笑いものになる。」
たしかに,ケーンは尊大で鼻持ちならない男だ。しかし,ケーンはいつからそんな男になったのか。ケーンがサッチャーと交わす会話の中で,次のようなことを言うシーンがある。
ケーン「富豪でなかったら立派な男になっていた。」
サッチャー「今は違うと?」
ケーン「環境の割には立派です。」
サッチャー「何になりたかった?」
ケーン「あなたの嫌う者。」
ケーンの言う「あなたの嫌う者」とは,今の自分とは違う「立派な男」のことである。ケーンは飛ぶ鳥を落とす勢いの時であっても,富豪になったせいで尊大な男になってしまったという自覚を持っていたのだ。だからこそ,バーンスティンは「サッチャーは愚かな男だ。…ケーンの望んでいたものはカネなどではなかった。サッチャーはそれを理解できなかった」と語ったのだ。そうだとすれば,「バラのつぼみ」とは,ケーンが富豪になる過程で失っていったものであろう。それは何か?
リーランドがケーンについて次のように言うシーンがある。
「愛を求めていたよ。何をするにも愛欲しさだ。…自分にないものだからだ。持たないから人に与えられない。もちろん,自分自身は別だ。心から愛していた。それと母親も。」
ケーンの母親は,たまたま大きな財産を手に入れることになったが,それを自分のものにしないで,幼いケーンに譲るためにケーンと離れる決心をしたのである。ケーンが富豪になる過程で失っていったものとは,母親がケーンに対して持っていた「無償の愛を与える心」だった。ケーンは,愛情でさえギブ・アンド・テイクでしか考えられない人間になっていたのである。
「バラのつぼみ」。それは,母親が与えてくれたような「無償の愛」だった。映画のラストで出てくる,ケーンが幼いころに持っていたソリは,それを象徴するものなのである。
★★★「市民」とは?★★★
「市民ケーン」というタイトルは,原題のCitizen Kaneを日本語に訳したものなので,原題と異なるタイトルではない。では,なぜわざわざ「市民」をつけなければならないのか?「チャールズ・フォスター・ケーン」でもよさそうなものではないか?
私にはこれが疑問なのだが,この映画がウィリアム・ランドルフ・ハーストを徹底的にコケにしている映画だということから,次のように考えてみた。
この映画には,ケーンが,自分がアメリカ国民だということを強調するシーンが何度かある。たとえば,ケーンが州知事に立候補して演説するシーン。
「私は今も,これまでも,これからも米国市民だ。」
また,ヨーロッパから帰国した時に,記者からのインタビューに答えて次のように言う
「私はアメリカ市民だ。常にそうだ。」
要するに,オーソン・ウェルズによれば,ケーンはアメリカ国民を代表する存在なのであり,巨万の富を手に入れた人物なのである。つまり,アメリカンドリームの体現者なのである。そうだとすれば,オーソン・ウェルズは,ランドルフ・ハーストに向かって,「大成功をおさめたなんて偉そうなことを言っても,結局はケーンのように,孤独のうちに死んでいくのさ」という意味を込めて,わざわざ「市民」をつけたのではないだろうか。(考えすぎかもしれないが…。)そこまで挑発的な意味があるとすれば,そりゃ,ハーストも怒るよね,ということで納得しておこう。
(私がよく訪問するブロ友さんが最近この映画のレビューをアップされていて,「バラのつぼみ」の解釈がいろいろあることを知りました。そこで,昨日私も再鑑賞しましたが,以前Yahoo!に掲載した際の解釈通りかと思いましたので,それを多少編集し直してアップしました。)