県政のかじ取り役は誰に?現新3人が立候補の山口県知事選挙 8日の投開票に向け舌戦続く

2/3(火) 18:10 KRY山口放送 配信より

県政のかじ取り役は誰に?現新3人が立候補の山口県知事選挙 8日の投開票に向け舌戦続く(KRY山口放送) - Yahoo!ニュース 配信より

https://news.yahoo.co.jp/articles/e5936d1607fd44ab816875dadda2b2b13d8e51a6

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県政のかじ取り役を誰に託すのか?現職と新人の3人が立候補した山口県知事選挙は、衆院選と同じ8日の投票に向け、選挙戦が展開されています。

【動画】山口県知事選・3候補の基本スタンスと最重点政策を比較 

山口県知事選挙に立候補しているのは届け出順に、 無所属の現職で自民党・公明党・国民民主党が推薦する村岡嗣政候補(53) 無所属新人の有近眞知子候補(43) 無所属新人で共産党と社民党が推薦する大久保雅子候補(61) の3人です。

■村岡嗣政候補

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村岡候補は宇部市出身。総務省の官僚を経て2014年の知事選で初当選、今回、4選を目指しています。

企業誘致の実績やそれに伴う新たな雇用の創出など経済面での成果を強調、また、県の財政健全化を一定程度進め、その結果生まれた財源を活用して全国トップクラスとされる子育て支援策を進めてきた、と実績を前面に打ち出します。

■有近眞知子候補

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有近候補は山口市徳地出身。2019年の県議選・柳井市選挙区に出馬し初当選、今回、2期目途中で知事選に立候補しました。

現職がこれまで「自民党県連丸抱え」で知事選を戦ってきた結果、いまの県政が「県議会・自民党の言いなりになっている」と批判しています。 その上で県政の透明化を掲げるほか、若者のUターンを後押しする新たな制度づくりなどを訴えています。

■大久保雅子候補

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大久保候補は、山口市阿知須出身。「原水爆禁止山口県協議会」の役員を務めていて自らが事務局員を務める「市民連合@やまぐち」から打診を受け、出馬を決めました。

現在の県政を「格差と貧困の広がりを放置し、県民に冷たい県政だ」と批判、自身が非正規雇用でダブルワーカーであることや長年、市民運動に関わってきた経験を踏まえ、中小企業で働く人の賃上げや、介護事業所の支援強化などを打ち出しています。 今回の知事選は、3期12年続く現在の県政への評価や人口減少対策などで論戦が交わされています。 投開票日は衆院選と同じ2月8日です。 1月21日現在の有権者数は、108万6642人です。

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最終更新:2/3(火) 19:08
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私のコメント :  令和8年2月4日、山口県政のかじ取り役を誰に託すのか? 現職と新人の3人が立候補した山口県知事選挙は、衆院選と同じ令和8年2月8日の投票に向け、選挙戦が、山口県では、展開をなされています。

令和8年2月4日、外務省 密約書 不在の問題における、各対応が、私のもとにあり、よって、慶應義塾大学法学部 政治学科 を卒業もされている 向山 淳代議士 秘書 田中様と私は、対談をした。

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向山淳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 配信より

この項目は、2026年2月8日(まで)に実施が予定されている投票および選挙候補者・候補予定者・政党等について扱っています。

投稿者は特に選挙期間中の投稿には細心の注意を払い推測や予想、候補者や政党に対する主観的評価を加えないようにしてください。投稿の際は脚注などを用いて、随時その記述の根拠となる情報源を明記することを忘れないでください。その他の注意点についてはテンプレートの解説を参照願います。

 日本の政治家

向山 淳
むこうやま じゅん

総務大臣政務官就任に際し公表された公式肖像画像

生年月日 1983年11月19日(42歳)
出生地  日本 埼玉県川口市
出身校 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
ハーバード大学公共政策大学院修了(行政学修士)
前職 三菱商事社員
所属政党 自由民主党(麻生派)
称号 学士(法学)(慶應義塾大学)、修士(行政学)(ハーバード大学)
配偶者 向山哲史(Luup取締役・執行役員)[1][2]
 衆議院議員

選挙区 比例北海道ブロック(北海道第8区)
当選回数 1回
在任期間 2024年11月1日 - 現職

向山 淳(むこうやま じゅん、1983年11月19日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(1期)、総務大臣政務官。

来歴
埼玉県川口市生まれ[3]。父の仕事の都合によって、中学卒業までの間に2歳から4歳までをペルー、11歳から14歳までをアメリカ合衆国、14歳から15歳までをアルゼンチンと移り住んだ[4]。

慶應義塾女子高校卒業後、慶應義塾大学法学部政治学科に進学し卒業。

三菱商事で13年間勤務。主にインターネット決済事業、電力や港湾などのインフラ投資に従事。北海道出身で同僚であった夫と結婚し、カナダトロントに駐在。カナダではカナダ三菱商事インフラ金融部長、兼、OMERS(オンタリオ州地方公務員年金基金)の戦略投資部に出向し、欧米豪の発電所・港湾・高速道路等のインフラ投資や中小企業の企業再生投資等に従事した。その後、夫の転勤時に退職し主婦として妊活に集中するも、不妊に悩む。その経験をきっかけに政治家を目指すことを決意。政策を学ぶため留学を決意し、合格通知を受け取ったところ妊娠も発覚。誕生した0歳の娘を連れ、神山財団の奨学金を受けて[5]ハーバード大学に娘と2人で私費留学した。

修了後はアジア・パシフィック・イニシアティブ主任客員研究員[5]として新型コロナ民間臨時調査会に参加したほか、自由民主党デジタル社会推進本部Web3PTワーキンググループメンバー[6]やコロナ危機下の育児と仕事の両立を考える保護者有志の会発起人[7]、向山政策ラボ代表などとなった。

2022年7月の第26回参議院議員通常選挙では執行部の比例区の女性比率を3割にするとの方針により、急遽、公示の6週間前に自由民主党公認を受けて立候補したが、20,638票の獲得に留まり落選[8]。

その後、夫の家族がいる函館での次期衆院選の公募に応募し、2023年7月に自由民主党北海道第八選挙区支部長に就任。2024年4月、学校法人野又学園の元理事長の野又肇が「向山じゅん連合後援会」の会長に就任した[9]。

2024年10月15日、第50回衆議院議員総選挙が公示され、北海道8区からは向山、立憲民主党現職の逢坂誠二、日本共産党新人の元函館市議会議員の本間勝美の計3人が立候補した。逢坂は比例名簿には登載されなかった[10]。10月25日、読売新聞は終盤情勢を発表。「優勢だった逢坂を向山が追い上げ、接戦となっている」と報じた[11]。10月27日、総選挙執行。投票締め切りの20時[12]直後に北海道文化放送は逢坂の当選確実を報じ[13]、逢坂は6期目の当選を果たした。自民党は比例北海道ブロックで3議席を獲得。単独1位の伊東良孝を除く2議席のうち、向山は2番目の惜敗率(84.909%)で初当選した[14][15]。

2025年9月5日、総裁選の前倒しを求める意思確認の書面に署名・捺印した[16]。同年10月22日、高市内閣で総務大臣政務官に就任[17]。

選挙
当落 選挙 執行日 選挙区 政党 得票数 得票率 定数 得票順位
/候補者数 政党内比例順位
/政党当選者数
落 第26回参議院議員通常選挙 2022年7月10日 比例区 自由民主党 20,638票 ーー 50
30/18
比当 第50回衆議院議員総選挙 2024年10月27日 北海道第8区 自由民主党 83,006票 43.13% 1 2/3 3/3
人物
愛称は「むこじゅん」で自身のYouTubeチャンネルやSNSアカウントでこの呼称を使用している[18]。
夫はLuupの取締役・執行役員の向山哲史[1][2]。
衆議院に初登院した2024年11月11日、本会議開始前の議場において、向山はスマートフォンで同僚議員の福田かおるの写真を撮った。衆議院規則第211条では「議員は、議院の品位を重んじなければならない」と定められており、議員の議場内での撮影を禁止するものと解釈されている。その後、向山はXにおいて謝罪した[19][2]。自民党幹部は向山と福田を口頭で注意し、11月13日の議院運営委員会の理事会で自民党の理事が陳謝した[20][21][22][23]。この撮影の件は11月13日にYahooのトップページにも掲載された。一方、古市憲寿は、12日に「なぜ議場が撮影禁止かを合理的に説明できるんだろうか。テレビカメラもあるから保安上の理由ではない。どうしてダメなの」とXで(旧Twitter)主張した。
2024年12月8日にNHKの日曜討論の「新人議員に問う 目指す政治・社会は」に自民党の新人として出演[24] SNSでの政治活動、政治資金の問題、現役世代への対応や、少数与党として迎える国会論戦などについて議論した。[25]。
著書
共著 一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ著『新型コロナ対応・民間臨時調査会 調査・検証報告書』、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2020年10月。ISBN 978-4799326800。

脚注
^ a b “向山 哲史 / Satoshi Mukoyama on X: "昨日、妻のむこう山じゅんが、参院選全国比例で自民党の公認を頂き、政治の道を…”. archive.md. 2024年8月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月23日閲覧。
^ a b c “「修学旅行気分ですか」自民党・新人女性ペアが議会で“禁止行為”→批判殺到し謝罪「お詫び申し上げます」”. 女性自身. 2024年11月23日閲覧。
^ “向山(むこうやま)じゅんって誰?まとめ”. 向山 じゅん (2022年5月22日). 2024年11月25日閲覧。
^ “向山じゅん公式サイト|自民党衆議院北海道第8選挙区支部長”. 2024年10月31日閲覧。
^ a b “向山 淳(Jun Mukoyama)|海外留学奨学金制度”. 一般財団法人神山財団. 2024年10月31日閲覧。
^ “自民党web3ホワイトペーパー。Japan is back, Again.|衆議院議員 塩崎彰久(あきひさ)”. note(ノート) (2023年4月6日). 2024年11月10日閲覧。
^ “コロナ危機下の育児と仕事の両立を考える保護者有志の会|note”. note(ノート) (2020年6月20日). 2024年11月10日閲覧。
^ “参議院選挙 自由民主党 比例代表候補者”. NHK. 2024年11月6日閲覧。
^ “後援会の立ち上げとご支援のお願い”. 向山じゅん note (2024年4月27日). 2024年11月7日閲覧。
^ “衆議院選挙2024 北海道(札幌・函館など)開票速報・選挙結果”. 衆議院選挙2024特設サイト. NHK. 2024年10月28日閲覧。
^ 『読売新聞』2024年10月25日付朝刊、10-13面、「衆院選 注目選挙区の終盤情勢」。
^ “<衆院選・詳報>全議席確定 大敗の自民191議席、立民は148議席 国民、れいわは大幅議席増”. 東京新聞 (2024年10月28日). 2024年11月11日閲覧。
^ “衆議院議員選挙 北海道8区 立憲民主党・逢坂誠二氏が当選確実”. 北海道文化放送 (2024年10月27日). 2024年10月28日閲覧。
^ “自由民主党 北海道ブロック 比例代表候補者”. 衆議院選挙2024特設サイト. NHK. 2024年10月28日閲覧。
^ “比例代表 北海道 比例名簿・候補者 選挙・開票結果”. 衆院選2024. 読売新聞. 2024年10月28日閲覧。
^ “向山淳議員「自民党が見放されてしまう」…自民党内で高まる「石破おろし」の声 北海道でも”. HTB北海道ニュース. 2025年9月6日閲覧。
^ “文科副大臣に中村氏 財務政務官に高橋氏 総務政務官に向山氏”. 北海道新聞デジタル (北海道新聞社). (2025年10月22日) 2025年10月23日閲覧。
^ “【むこじゅんチャンネル】向山じゅん”. YouTube. 2024年12月8日閲覧。
^ 産経新聞 (2024年11月12日). “自民党の新人議員が本会議場内で写真撮影し、Xで釈明「禁止されていることを知らずに…」”. 産経新聞:産経ニュース. 2024年11月12日閲覧。
^ “自民の初当選議員2人、議場でスマホ撮影 党幹部が口頭注意:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2024年11月13日). 2024年11月13日閲覧。
^ “自民の新人議員2人、本会議場でのスマホ撮影で厳重注意…「禁止されていることを知らなかった」”. 読売新聞オンライン (2024年11月13日). 2024年11月13日閲覧。
^ “自民、新人2議員厳重注意 衆院本会議場で写真撮影”. 毎日新聞. 2024年11月13日閲覧。
^ “自民、新人2議員厳重注意 衆院本会議場で撮影”. 日本経済新聞 (2024年11月13日). 2024年11月13日閲覧。
^ 日本放送協会『新人議員に問う 目指す政治・社会は - 日曜討論』。2024年12月11日閲覧。
^ 日本放送協会 (2024年12月8日). “日曜討論 衆院選で初当選の議員 選挙でのSNS活用など議論 | NHK”. NHKニュース. 2024年12月11日閲覧。
外部リンク
公式ウェブサイト
向山淳 (@MukoyamaJun) - X
向山淳 (mukojun) - Facebook
向山淳 (@jun_muko) - Instagram
【むこじゅんチャンネル】向山じゅん - YouTubeチャンネル
公職
先代
川崎秀人
古川直季
長谷川英晴  総務大臣政務官
中野英幸
梶原大介と共同
2025年 - 次代
現職




 総務大臣政務官


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1983年生
存命人物

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山梨近代人物館 第15回展示 紹介人物・石橋湛山: 山梨県立博物館 -Yamanashi Prefectural Museum- 配信より

http://www.museum.pref.yamanashi.jp/3rd_jinbutsu/jinbutsu06_ishibashi_tanzan.html

第15回展示紹介人物

石橋 湛山

プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2

・プロフィール
【人物の氏名】
石橋 湛山
いしばし たんざん
Ishibashi Tanzan

【生没年】
明治17年(1884)生まれ 昭和48年(1973)死去

【出身地】
東京府芝区(東京都港区)〈その他〉

【パネルの言葉を残した背景】
大正10年(1921)の石橋による『東洋経済新報』の社説。植民地支配や中国との 対立を招く大日本主義は、経済面や民族自決の潮流からも、まったく利益が得られないことを喝破している。

【人物の解説】
幼児期から高校生までの間を山梨で過ごし、早稲田大学を経て『東洋経済新報』に入社、同誌にて「小日本主義」を展開した気骨の言論人である。戦後に政界入りし、第55代内閣総理大臣となるも直後に病で倒れ、在任期間65日間で退陣する(現行憲法下歴代2番目の短命内閣)。回復後は、訪中して周恩来首相と会談するなど、中華人民共和国との国交回復に尽力した。

・年表
年代 出来事
明治17年
(1884) 東京府(現在の東京都)の杉田家に生まれる(幼名は省三〈せいぞう〉、母方の石橋姓を継ぐ)
明治18年
(1885)
父・杉田湛誓の昌福寺住職就任に伴い、西山梨郡稲門村(現在の甲府市)に転居
明治24年
(1891)
南巨摩郡増穂村(富士川町)の昌福寺に転居
明治27年
(1894)
中巨摩郡鏡中条村(南アルプス市)の長遠寺住職望月日謙に預けられる
明治28年
(1895) 山梨県立尋常中学校(旧制甲府中学校)に入学
この年、『東洋経済新報』創刊
明治34年
(1901) 甲府中学校校長に大島正健就任
明治35年
(1902) 名を湛山に改める
山梨県立第一中学校を卒業
明治36年
(1903) 早稲田大学高等予科に入学
明治41年
(1908) 東京毎日新聞社に入社(翌年退社)
明治44年
(1911) 東洋経済新報社に入社
大正13年
(1924) 東洋経済新報社第5代主幹に就任
大正14年
(1925)
東洋経済新報社代表取締役・専務取締役に就任
昭和16年
(1941) 東洋経済新報社代表取締役社長に就任
昭和20年
(1945)
東京大空襲により東京都芝の自宅焼失
東洋経済新報社の編集部門を秋田県横手町に疎開
昭和21年
(1946)
戦後初の総選挙に出馬し落選するも、第一次吉田内閣の蔵相に就任
東洋経済新報社社長を辞任
昭和22年
(1947)
第23回衆議院議員総選挙に静岡県第2区から出馬し当選
公職追放となり、蔵相を辞任
昭和26年
(1951)
公職追放解除となり自由党に復党
昭和27年
(1952) 立正大学学長に就任(昭和43年まで)
昭和29年
(1954) 鳩山一郎内閣の通産相に就任
昭和30年
(1955) 自由民主党の結党に参加
昭和31年
(1956)
第2代自由民主党総裁となり、第55代内閣総理大臣に就任
昭和32年
(1957)
病気療養のため、総理大臣を辞任(在任期間65日間)

昭和34年
(1959) 訪中し、毛沢東、周恩来らと会談
昭和38年
(1963) 第30回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退
昭和48年
(1973)
逝去、遺骨の一部は身延山久遠寺に分骨

・エピソード1
【「一生を支配する影響を受けた」大島校長との出会い】
石橋湛山は、幼少時から大学進学までの期間を山梨県で過ごした。山梨時代の石橋が、自ら「一生を支配する影響を受けた」(『湛山回想』)と言っているのが、県立甲府(第一)中学校(現在の県立甲府第一高等学校)での大島正健校長との出会いである。
大島正健は相模国高座郡中新田村(神奈川県海老名市)生まれの農学者で、札幌農学校の第1回卒業生として、ウィリアム・S・クラーク博士の薫陶を受けた人物だった。クラークは大島ら生徒には「Be gentleman(紳士であれ)」とだけ求め、札幌を去るにあたって「Boys, be ambitious(青年よ、大志を抱け)」の有名な語を残した。大島は、こうしたクラークのエピソードを石橋ら生徒に伝え、間接的にクラークの薫陶を山梨県の子弟にもたらした。
石橋はこうした民主主義教育の実践者であるクラークの教育者としての姿に感動し、クラークの肖像を自室に飾り続けたという。なお、リベラルな言論人としての石橋の思想形成に影響を与えた大島・クラークとの出会いは、石橋が甲府中学で2回落第したために大島の赴任に巡り合えたことから成立している(石橋は甲府中学に2年早く入学しているので、結果的には年齢の辻褄があっている)。

・エピソード2
【「小日本主義」から「更生日本の門出―前途は実に洋々たり」まで】
戦前のわが国は、日清・日露の2度の戦争を経験し、その結果台湾、朝鮮半島を併合し、東アジアにおいて軍事と経済の勢力圏拡大を志向する「大日本」への道を歩んでいた。世界屈指の軍事大国となりつつあった日本だが、大正時代には欧州を主戦場とした第一次世界大戦による大戦景気の影響もあって、国内には大正デモクラシーという民主的な風潮が広まりつつあった。そうしたなかで、「大日本」への道を批判するジャーナリストとして登場したのが石橋湛山である。
石橋の批判は、植民地経営などの帝国主義的政策を、主に経済的論点から分析して、純コスト的に負担の方が大きい「損」な政策であることを指摘した。また、朝鮮半島、中国大陸だけでなく、世界的に民族自決の風潮が拡大しており、国際関係的にも「大日本」の道は不利であることを明快に論じ、日本の進むべき道は植民地放棄・軽武装・門戸開放による経済発展からなる「小日本」であることを主張した。
その後の日本は、石橋の主張とは正反対の道を突き進み、対外的には泥沼の戦争を止めることができず、国内的には国民の生命と財産、精神の自由を押し潰していくことになる。そうしたなかでも、石橋は自ら筆をとる『東洋経済新報』を拠点に言論活動を続け、発行禁止処分や紙の減配などに遭いながらも、国民に不利益をもたらす戦争を継続する体制への批判を続けた。そして、昭和20年(1945)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏する。直後の『東洋経済新報』昭和20年8月25日号で石橋は、社論「更生日本の門出―前途は実に洋々たり」と題し、この敗戦は新たな日本の建設に向けて何等の制約をもたらすものではないとし、民主国家としての「小日本」の再出発の前途は明るいものであると語った。石橋が描いていた「小日本」は、戦後の日本にようやくかたちを表していったのである。

甲府中学校時代に活躍した文芸上の舞台「校友会雑誌」(山梨県立博物館蔵)より

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