県が撤去した朝鮮人労働者追悼碑は「加害の歴史」伝えるシンボルだった 「群馬の森」なくなっても続く活動【戦後80年連載・向き合う負の歴史(1)】
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県が撤去した朝鮮人労働者追悼碑は「加害の歴史」伝えるシンボルだった 「群馬の森」なくなっても続く活動【戦後80年連載・向き合う負の歴史(1)】(47NEWS) - Yahoo!ニュース 配信より
戦時中に朝鮮人が建設工事に動員された中島飛行機の地下工場跡地を案内する川口正昭さん(中央)=2024年11月、群馬県みなかみ町
日本軍「慰安婦」、南京大虐殺、朝鮮人強制動員、沖縄戦「集団自決」…。
戦後80年となり生き証人が少なくなる中、「負の歴史」「加害の過去」を否定したり矮小(わいしょう)化したりする言説が増えている。
共同通信の全国の記者が、歴史修正主義にあらがう各地の人々を追った連載企画「向き合う負の歴史」をお届けする。
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「記憶 反省 そして友好」の文字が日本語、ハングル、英語で刻まれた碑は、20年間、日本の加害の歴史を伝えるシンボルとして存在していた。群馬県は2024年2月、この碑を撤去した。
群馬県高崎市の広大な県立公園「群馬の森」の一角。太平洋戦争中に日本に動員され、命を落とした朝鮮人労働者を追悼する碑は、市民団体が毎年、追悼式を開き、歴史を伝える場でもあった。
更地となっても、県内外から訪れる人や献花が絶えない。追悼碑を管理していた市民団体メンバーたちは「碑は壊されても、伝えるべき加害の歴史は残り続ける」と、活動を続けている。(共同通信=重冨文紀、赤坂知美)
▽動員の痕跡消されたコケの公園 群馬県前橋市の中心部から車で北へ2時間、草津温泉も越えた山の中に、硫化水素のにおいが漂い、緑のコケが美しい神秘的な場所がある。中之条町の「チャツボミゴケ公園」だ。鉱泉が湧き出る中を、遊歩道が整備されている。
案内してくれたのは川口正昭さん(65)。追悼碑の撤去に伴い、管理団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」は解散したが、共同代表だった川口さんは、群馬県内の朝鮮人動員跡地を案内し、フィールドワークをしている。
「ここにはかつて『群馬鉄山』があり、戦争末期、政府の要請で開発が進められました」
工事を請け負った会社の「鋼管鉱業株式会社三十年史」によると、1944年、朝鮮人480人が開発工事に従事し、なかには60歳近い人まで動員された。
しかし、中之条町が設置した公園の説明板は、コケや湿地の解説だけで、朝鮮人労働者や強制動員の記述は見当たらない。
▽動員の歴史触れず観光地に チャツボミゴケ公園から南へ8キロ。次に目指したのは、コンクリートの柱が並ぶ廃線がある「太子駅」の跡地だ。かつて群馬鉄山から掘り出した鉄鉱石は、山奥からケーブルカーでここまで運んでいた。ここから鉄道で、はるか太平洋側の神奈川県川崎市の製鉄所へ運ばれていた。
川口さんは話す。「県や市町村は鉄山や駅の跡地を観光地として整備していますが、朝鮮人が働かされた歴史には一切触れていません。本来は、史実を調査し後世に伝えるのは行政の責任。しかし朝鮮人労働者の歴史は放置されてきました」
▽先人が掘り起こした歴史を伝える 川口さんは社会科教師を退職後、労働組合活動をするかたわら、守る会の活動をしてきた。フィールドワークや各地での講演で気を付けているのは、先人たちが掘り起こしてきた史実をありのまま伝えることだ。「主観を交えず、参加者に考える材料を提供することが大切です」
追悼碑は、こうした群馬県内各地に残る朝鮮人動員のシンボルでもあった。川口さんは悔しさを隠さない。「碑の撤去は、植民地支配された朝鮮から連れてこられた人々の尊厳や歴史を否定すること。行政が歴史修正主義に加担するに等しい行為をした。衝撃を受けました」
▽群馬県の動員朝鮮人は4607人
追悼碑建設のきっかけは、戦後50年の節目だった1995年までさかのぼる。
有志により市民団体「戦後50年を問う群馬市民行動委員会」が発足。
それまで体系的な調査がされていなかった県内の朝鮮人動員の実態を明らかにしようと、史料の収集分析や生存者への聞き取り、現地調査を始めた。
その成果は「守る会」が作成した「群馬における朝鮮人強制連行と強制労働」にまとめられている。
その中で、古馬牧村(現みなかみ町)で中島飛行機製作所の地下工場建設に従事した在日朝鮮人の男性は、こう証言している。 「人間が働くところではなかった。あまりにもむごいので、1週間ももたずに逃げ出してしまった」
群馬県内を中心に戦争遺跡を調査した菊池実著「近代日本の戦争遺跡研究」(雄山閣)は、県内に動員された朝鮮人は少なくとも4607人と記す。
内務省警保局編「社会運動の状況」などによると、「募集」「官斡旋(かんあっせん)」「徴用」と3段階で強まっていった動員政策の「官斡旋」では、群馬への朝鮮人移入者は1942年に92人、1943年に1551人、1944年末は2964人だった。
彼らは工場や発電所の建設などに従事し、過酷な作業のため、死者も出た。群馬県北部の岩本発電所の工事を請け負っていた間組(現・安藤ハザマ)の社史には、以下のような記述がある。
「すでに現場は極限状態で(中略)慢性的な飢餓状態にあった。過酷な作業のため死亡者が続出し、中国人は43名が死亡した。また、こうした劣悪条件に耐えられず逃亡する朝鮮人、中国人も相次いだ」(間組百年史)
▽名前も分からない犠牲者
朝鮮人犠牲者の多くは名前や出生地が分からず、記録に残る人はわずかだ。桃野村(現みなかみ町)で保管されていた埋火葬認許原簿や如意寺(みなかみ町)の過去帳には、朝鮮人23人の名前が記載されていた。創氏改名の日本式の名前で書かれ、本名が分からない人もいる。
他に、藤岡市の西蓮寺には朝鮮人のものと伝えられる骨つぼが残る。約20年前、四代目住職の草香雄道さん(67)が本堂の物置を整理した際、遺骨の入ったつぼを見つけた。草香さんは祖母が生前、寺で朝鮮人の遺骨を預かっていると語っていたことを思い出した。時期や経緯は分からない。
つぼを包んでいた風呂敷には、死者の名前とみられる3文字が書かれていたが、1文字目はかすれ、「龍雲」のみ読めた。
草香さんは
「遺族に返したかったが、詳細が分からず、寺で責任を持ってお預かりしてきた。故郷に帰りたくても帰れなかった人がいたのだろう」
と思いをはせる。
▽全会一致で建立
こうした、人数も名前も分からない朝鮮人犠牲者たちの存在を伝えたい―。
市民団体は2001年、群馬県議会へ追悼碑建立を請願し、自民党を含む全会一致で採択された。
「宗教的・政治的行事および管理は行わない」との条件付きで、2004年に碑を設置した。
団体は当初、碑に「強制連行」と刻もうとしたが、これに難色を示した県と交渉の末、
「労務動員による朝鮮人犠牲者を追悼する」と日本語とハングルで記すことになった。
後継の市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」が管理し、碑前では毎年、追悼式を開いた。
▽「反日」と抗議、そして裁判に
しかし2012年以降、「碑文が反日的」など碑の撤去を求める電話やメールが、県や守る会に寄せられ始めた。保守系団体「日本女性の会 そよ風」も撤去を訴え街宣活動をするようになった。他の保守団体も2014年、設置許可の取り消しを求める請願を群馬県議会に提出し、賛成多数で採択された。
碑文にあった「労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼する」といった表現が問題視されたとみられる。守る会側は、碑を撤去することは過去に向き合わないことにつながると反発したが、その後まもなく、県も設置更新を不許可にした。過去の追悼式で参加者が「強制連行の事実を訴え、正しい歴史認識を持てるようにしたい」などと発言したことが、政治的行事に当たると判断した。
守る会は、追悼碑の敷地部分を買い取ることや、追悼式の自粛などの代替案を示したが、県はこれを拒否し、県立公園「群馬の森」の外に移設するよう求めた。守る会は表現の自由の侵害だとして訴訟に踏み切り、不許可処分取り消しを求めた。
一審前橋地裁判決は、追悼式での発言が「政治的行事を行わない」条件に反したと認定した。ただ一方で、条件違反があっても公園の役割は失われず、県の不許可処分は裁量権を逸脱しており違法だと結論づけた。
しかし、二審東京高裁判決は、碑が政治的な中立性を失ったとして、県の不許可処分は適法だと認定。守る会が逆転敗訴した。2022年の最高裁判決で敗訴が確定した。
県は撤去を命じたが守る会側が応じなかったため、2024年1月末から行政代執行による工事で撤去した。
▽「戦後」であり続けるように 群馬の森の追悼碑は撤去されたが、県内にはもう一つ追悼碑がある。
太田市の金龍寺にある「第二次世界大戦戦時徴用朝鮮人犠牲者慰霊之碑」と刻まれた石碑だ。
中島飛行機太田製作所が米軍の空襲にさらされた際、犠牲となった朝鮮人労働者11人の遺骨が眠る。
解散した守る会のメンバーは、全国の市民団体と連携し、各地の追悼碑を守るため、新たな活動を模索している。
川口さんは語る。「いつまでも『戦後』であり続けるよう、日本の負の歴史も伝えていかねばならない」
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