釜本邦茂氏死去 異例とも言えた政界進出はスポーツ界発展のため プロ野球阪神ファンとしても知られる いまだ破られない金字塔も
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釜本邦茂氏死去 異例とも言えた政界進出はスポーツ界発展のため プロ野球阪神ファンとしても知られる いまだ破られない金字塔も(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース 配信より

本紙のインタビューで「サッカーは点の取り合い、1対1の戦いなんだ!」と熱く語る釜本邦茂さん(2010年5月11日撮影)
サッカー元日本代表で伝説のストライカー、釜本邦茂さんが10日、
肺炎のため大阪府内の病院で死去した。81歳だった。
釜本さんは日本代表で出場した64年東京、68年メキシコ五輪で活躍。
特にメキシコ五輪では7得点で得点王になるなど、銅メダル獲得に貢献した。
引退後も評論活動や国会議員など、日本サッカーの実力を押し上げるため尽力した。
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日本サッカーの歴史に輝かしい足跡を刻んだ“世界の釜本”が旅立った。日本代表として68年メキシコ五輪で日本サッカー界初となる銅メダルを獲得したニュースは、当時のスポーツ界を席巻した。釜本さんはナイジェリアとの1次リーグ初戦でハットトリックを達成。メキシコとの3位決定戦では2得点をマーク。大会通算7得点で得点王に輝いた。
代表として国際Aマッチに76試合出場、75得点の記録は日本サッカー協会でいまだ誰にも破られていない金字塔だ。また、日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマーでは251試合出場、202得点。68年に敢闘賞を受賞した。得点王7回、アシスト王3回、年間優秀11人賞14回、年間最優秀選手賞7回受賞と中心的存在だった。
選手をしながら、78年にはヤンマーで監督就任。84年の現役引退まで選手兼監督を続けた。その間、JSL1部リーグ優勝1回、JSLカップ優勝2回を成し遂げ、指導者としての能力も発揮した。91年、後にJリーグ入りする松下電器(ガンバ大阪)の監督に就任し、名門クラブの礎を築いた。95年に退任すると、98年に日本サッカー協会副会長に就任した。
その活躍はサッカーだけにとどまらなかった。G大阪の監督を辞任し、フリーの身で迎えた95年。早大の先輩でもある自民党(当時)の森喜朗氏から政界進出のオファーを受けた。参院選で自民党の比例代表区で当選。W杯招致活動など、元アスリートとしてスポーツ行政にも取り組んだ。当時、異例とも受け取られた転身は、サッカー界、スポーツ界の発展のためだった。また99年7月には、02年W杯に向けた強化推進本部長に就任し日本代表のレベルアップに尽力した。
京都生まれでプロ野球・阪神のファンとしても知られ、サッカーだけでなく野球にも提言するなど、スポーツ界のご意見番として生涯、スポーツ界を盛り上げた。
釜本邦茂(かまもと・くにしげ)1944年4月15日、京都市出身。早大を卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部に入部。64年東京、68年メキシコと2度の五輪に出場。銅メダルを獲得したメキシコ五輪では7得点で得点王に輝く。国際Aマッチに76試合出場し、75得点は日本サッカー協会の記録では最多記録。G大阪の初代監督。95年からは参院議員を1期務めた。05年に日本サッカー殿堂入り。
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