石破茂首相
石破茂首相は15日の終戦の日に合わせた靖国神社(東京・九段北)への参拝を見送る方針を固めた。
自民党総裁として玉串料を私費で奉納する。関係者が8日明らかにした。
小泉進次郎農相は記者会見で「閣僚としてのコメントは差し控える。個人としては適切に判断していきたい」と述べた。
【写真】靖国参拝「適切に判断」小泉農相 終戦の日について問われ
林芳正官房長官は会見で、首相と自身の靖国参拝や玉串料奉納に関し「首相が適切に判断する。私も同様だ」と語った。
参拝の予定がないと明言したのは村上誠一郎総務相、岩屋毅外相、阿部俊子文部科学相、中野洋昌国土交通相、平将明デジタル相、三原じゅん子こども政策担当相、伊東良孝沖縄北方担当相。
【関連記事】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ハイ・ファイ・セット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』配信より
出典検索?: "ハイ・ファイ・セット" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2022年3月)
ハイ・ファイ・セット
Hi-Fi Set
出身地 日本
ジャンル フォーク
ニューミュージック
ポップス
活動期間 1974年 - 1994年
レーベル アルファ・アンド・アソシエイツ
(1975年 - 1978年)
東芝EMI
(1978年 - 1983年)
CBS・ソニー
→CBS/SONY RECORDS
→Sony Records
(1984年 - 1994年)
事務所 バード・コーポレーション
共同作業者 赤い鳥
紙ふうせん
荒井(松任谷)由実
細野晴臣
村井邦彦
小田和正
旧メンバー 山本潤子
山本俊彦
大川茂
ハイ・ファイ・セット (Hi-Fi Set) は、日本のコーラスグループ。1974年結成、1994年解散。
来歴
出典検索?: "ハイ・ファイ・セット" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2022年3月)
デビューまで
フォークグループ「赤い鳥」が路線上の違いから1974年9月に解散。「赤い鳥」のメンバーだった山本潤子(旧姓、新居潤子。1973年4月メンバーの山本俊彦と結婚)、山本俊彦(1947年2月23日 - 2014年3月27日、大阪市出身)、大川茂(1945年9月6日 - 、三重県出身)の3人が同年10月に結成した。グループ名は細野晴臣の案による。
デビュー後
1975年、「卒業写真」(作詞・作曲:荒井由実、編曲:服部克久)と同名のアルバムの同時リリースでレコード・デビュー。以降「冷たい雨」「朝陽の中で微笑んで」など、荒井の曲を数多くヒットさせ、後に荒井自身がセルフ・カバーしたことでいっそう人気が高まった。
1977年、ブラジルのシンガーソングライター、モーリス・アルバートの「愛のフィーリング(原題はFeelings)」になかにし礼が歌詞をつけたカバー曲「フィーリング」が大ヒット。第28回NHK紅白歌合戦にも出場。以降、山本潤子のソプラノ、山本俊彦のテナー、大川茂のバス・ヴォイスによる抜群のコーラスワークと都会的で洗練されたアレンジで、ニューミュージック全盛の時代に高い人気を誇った。
一時期、広松三和子[注 1]を「サポートメンバー」として、4人でコンサートをしていたことがある。
エフエム大阪のステーションミュージック「My Beautiful Music」(竜真知子/山本俊彦、編曲:井上鑑)(「マイ・ワンダフル・ミュージック」という曲名で表記されているものもある)もハイ・ファイ・セットが担当したものである。
1980年にいったん活動停止するが、1年後に活動再開し、4ビートジャズを日本語の歌詞で歌うなど新境地を開拓した。
1984年には「素直になりたい」がシチズンのCMソングに使われてヒット。1992年10月の活動休止まで、シングル曲26枚、アルバム19枚を残し、1994年9月に解散。
解散後
山本潤子はシンガー・ソングライターとして活動していたが、喉の不調から、2014年2月23日に静岡県沼津市の沼津市民文化センターで行ったコンサートで、同年5月6日に名古屋で行われるコンサートをもって無期限休養に入ることを報告。2月25日にはブログでも公表した[1][2]。
山本俊彦は音楽プロデューサーとして活動していたが、妻の潤子が無期限休養を公表した直後の2014年3月27日、虚血性心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。67歳没。3月28日の午前6時50分、自宅の2階で倒れているのを潤子が発見し、救急隊員が駆けつけたが、その場で死亡が確認されたという[3]。
大川茂は1995年、横浜市青葉区のスーパーマーケットにて窃盗未遂事件を起こし逮捕。その後不起訴処分となったが、音楽活動には戻っていない[4][5]。
メンバー
出典検索?: "ハイ・ファイ・セット" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2022年3月)
山本潤子(やまもと じゅんこ)
1949年12月30日 - (75歳)
大阪市阿倍野区出身(奈良県吉野郡天川村出生)
山本俊彦(やまもと としひこ)
1947年2月23日 - 2014年3月27日(67歳没)[3]
大阪府大阪市出身
大川茂(おおかわ しげる)
1945年9月6日 - (79歳)
三重県出身
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
赤い鳥 (フォークグループ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』配信より
赤い鳥
出身地 日本・兵庫県尼崎市
ジャンル
フォークソング
ソフト・ロック
活動期間 1969年 - 1974年
レーベル
URC
アルファレコード
東芝EMI
(原盤制作はアルファミュージック)
共同作業者
村井邦彦
紙ふうせん
ハイ・ファイ・セット
ハミング・バード
メンバー
後藤悦治郎(ギター)
山本潤子(ボーカル・ギター)
平山泰代(ボーカル・ピアノ)
山本俊彦(ギター)
大川茂(ベース)
渡辺俊幸(ドラムス・キーボード)
旧メンバー
松田幸一(ハーモニカ・パーカッション)
大村憲司(ギター)
村上“ポンタ”秀一(ドラムス)
赤い鳥(あかいとり)は、日本のフォークグループ。1969年に結成、1970年代を中心に活動し、1974年に解散した[1]。
解散後は元メンバーが紙ふうせん、ハイ・ファイ・セット、ハミング・バードを結成した。
解散時のメンバー
名前 生年月日 出身地 担当 備考
後藤悦治郎(ごとうえつじろう) 1946年4月29日(79歳) 兵庫県尼崎市 ギター
平山泰代(ひらやま やすよ) 1947年3月28日(78歳) 広島県広島市 ピアノ 1974年2月に後藤悦治郎と結婚
山本俊彦(やまもと としひこ) 1947年2月23日 - 2014年3月27日(67歳没) 大阪府大阪市 ギター
山本潤子(やまもと じゅんこ) 1949年12月30日(75歳) 大阪府大阪市阿倍野区 ボーカル・ギター 旧姓:新居
1973年4月に山本俊彦と結婚
大川茂(おおかわ しげる) 1945年9月6日(79歳) 三重県 ベース 1969年6月加入
渡辺俊幸(わたなべ としゆき) 1955年2月3日(70歳) 愛知県 ドラム・キーボード 1973年4月から
解散前に離脱したメンバー
名前 生年月日 出身地 担当 備考
松田幸一(まつだ こういち) 1947年4月15日(78歳) 富山県魚津市 ハーモニカ・パーカッション
大村憲司(おおむら けんじ) 1949年5月5日 - 1998年11月18日(49歳没) 兵庫県神戸市 ギター 1972年2月から1973年4月
村上“ポンタ”秀一(むらかみ ぽんた しゅういち) 1951年1月1日 - 2021年3月9日(70歳没) 兵庫県西宮市 ドラム 1972年6月から1973年4月
経歴
グループ名は鈴木三重吉主宰の児童雑誌『赤い鳥』からとった[1]。
各人がボーカルを担当することができ、美しいハーモニーが魅力的なグループであった。
各地の子守唄・伝承歌などを美しいコーラスワークで聴かせる傍ら、トニー・マコーレイ (en:Tony Macaulay) などの曲提供によりアルバムを発表するなどソフトロック的な音楽性も兼ね備えていた。
そのため関西地区で結成されたグループであるが、いわゆる関西フォークとは一線を画していた。
結成当時は後藤と平山の二人が日本民謡を独自のやり方で取り上げたデュエットだった[2]。
山本と新居潤子は、谷村新司らと結成したコーラスグループ「ヒルビリー・シンガーズ」のメンバーであったが[2]、アマチュアコンサートで一緒になったとき後藤に音楽性を買われて赤い鳥に加入した。
いったん加入した松田が脱退したのち大川が参加し、ここに五人編成の「赤い鳥」が再編された[2]。
後期にはウッドストックの影響で、ロック色の強い音作りをしたが[2]、基本的には赤い鳥は民謡とフィフス・ディメンションのようなコーラスものの両方をレパートリーにした[2]。
1969年4月に兵庫県尼崎市武庫之荘にある公民館(通称「赤い屋根の家」)でコンサートを開催した。
1969年11月、第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに関西・四国地区代表として出場[1]。
「竹田の子守唄」と「COME AND GO WITH ME」を歌い、フォーク・ミュージック部門の第1位を獲得、他部門の優勝グループを抑えてグランプリを獲得した[1]。
このコンテストにはオフコース(当時は「ジ・オフ・コース」)、チューリップ(当時は「ザ・フォー・シンガーズ」)も出場しており、財津和夫はオフコースに、小田和正は赤い鳥にそれぞれ「負けた」と思ったという。
村井邦彦(アルファミュージック)のプロデュースにより、1970年4月に渡欧しロンドンでレコーディングを行う。
同年6月に日本コロムビアからシングル『人生/赤い花白い花』」、アルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』でメジャーデビュー。同年9月、東芝EMIレコード/Liberty レーベルに移籍。
同年10月に「合歓ポピュラーフェスティバル'70」に出場し「翼をください」で新人奨励賞を受賞。
1971年1月から1972年6月まで、竹田一彦カルテットがバックバンドとして協力。
1971年2月発売のシングル『竹田の子守唄/翼をください』が発売3年で100万枚を突破するヒットになった。
1972年7月、渡米しレコーディング。
メンバー内の音楽上の路線対立から1974年9月に解散[1]。
後藤・平山夫妻は「紙ふうせん」、
山本夫妻と大川は「ハイ・ファイ・セット」、
渡辺は「ハミング・バード」を結成した[1]。
解散後
紙ふうせんはフォークのあり方を追求し、ハイ・ファイ・セットは荒井由実やジャズを取り上げるなど、ポップな演奏を繰り拡げた。ハミング・バードは赤い鳥の後期を継承するような音楽性を展開したが、アルバム1枚とシングル数枚で解散した。
その後、渡辺俊幸はグレープのサポートメンバーを経て、メンバーのさだまさしの専属音楽プロデューサー、編曲家を務める[3]他、テレビドラマやアニメの劇伴も多く担当している。
1983年には、大阪府の万博球場で再結成コンサートが行われた[要出典]。
1991年、後藤・平山夫妻は新ユニット「TSU-BA-SA」を結成した。2人のメンバーを新たに加えた4人編成で、1990年代中頃まで活動を行っていた。赤い鳥の再結成と見られることもあったが、あくまでも後藤夫妻のプロジェクトである。
大川は1995年、横浜市青葉区の食料品店の事務所荒らしを起こし逮捕。音楽活動には戻っていない。[要出典]以後、ハイ・ファイ・セットは実質的に活動休止となり、山本潤子はソロ歌手及び松任谷由実のコーラスとしての活動が主体となる。山本俊彦は音楽プロデューサーとして活動していたが、2014年に死去。
代表曲
「翼をください」
1971年「竹田の子守唄」のB面曲として発売。合唱曲として有名となり、既に1970年代後半から学校教育の場でもよく採り上げられるようになっていた。
「翼を下さい」と表記されることもあるが、厳密には「翼を下さい」と漢字表記した場合は、後年制作され、赤い鳥としてもシングル発売した英語バージョンを指す。
同名のテレビドラマも制作・放映された(翼をください (曖昧さ回避)を参照。: 1991年に川村かおりがカバーしてリバイバルヒットした。山本潤子は赤い鳥解散後、ハイ・ファイ・セット時代やソロ前期は、この唄に限らず赤い鳥時代の歌を封印していた。しかしこの歌が合唱曲となり、我が子までもが知っていたことがきっかけでまた歌うようになった。1998年、サッカーワールドカップの際には、サッカー日本代表チームの応援歌として山本潤子が歌いヒットした。
「竹田の子守唄」
民謡の伝承曲を原曲としてうたごえ運動とともに[要出典]広まった楽曲のカバー。1969年「お父帰れや」のB面曲としてURCから会員に発売。
1971年メジャー発売されて大ヒットした[1]。一般的にはどこかの民謡としか捉えられておらず、政治的要素よりも美しさでヒットした。ところがその後、被差別部落地区に伝わる子守唄を元にしているという理由で自粛され、長い間テレビ・ラジオから姿を消すことになり幻の曲となっていた。結局赤い鳥の被差別部落由来の曲はこの曲だけであった。
1995年発売の『これぞ決定盤! フォーク・ソング伝説』で初CD化。その他CDでは1998年発売の『URCシングルズ2』、1999年発売の『赤い鳥シングルズ』、2003年発売の12枚組ボックス・セット『赤い鳥 コンプリート・コレクション 1969-1974』および藤田正の著書『竹田の子守唄―名曲に隠された真実』(2003年2月、解放出版社、ISBN
4759200231)の付録CDに収録された。その後は『ゴールデン☆ベスト』シリーズ等のベストアルバムに代表曲として収録され、オリジナルアルバム『竹田の子守唄』自体も2013年にCD化されている。
→自主規制の事情については「竹田の子守唄」を参照