ルラ大統領が日本へ出発 ブラジル、国賓訪問

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ルラ大統領が日本へ出発 ブラジル、国賓訪問(共同通信) - Yahoo!ニュース  配信より

 

演説するブラジルのルラ大統領=18日、ブラジリア(ロイター=共同)

 

【サンパウロ共同】ブラジルのルラ大統領は22日、国賓として日本を訪問するため専用機で首都ブラジリアを出発した。日本が国賓を受け入れるのは2019年のトランプ米大統領以来、約6年ぶり。24日に日本に到着予定。27日までの日本滞在中に天皇、皇后両陛下との会見や宮中晩さん会、石破茂首相との会談などを予定している。  トランプ米政権の関税強化や米中対立を背景に、ブラジル側には主要貿易相手国の米国や中国への依存度を減らし、多角化に向け日本との貿易を拡大したい思惑がある。  日本、ブラジル両政府は外交・防衛当局間による対話の枠組み新設を含む行動計画(アクションプラン)を策定する見通し。経済や気候変動対策でも連携強化を図る。  ブラジルは、今年の国連気候変動枠組み条約第30回締約国会議(COP30)の開催国。ルラ氏は18日、日本メディアの取材に「気候変動問題の解決法を見つけるのに日本の科学技術が助けになる」と期待を語った。

 ブラジル大統領の国賓訪問は1996年のカルドゾ氏以来。

 

最終更新:共同通信

 
 
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多羅間俊彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』配信より

多羅間 俊彦
(俊彦王)
東久邇宮家

1930年代撮影。

続柄
東久邇宮稔彦王第4王子
崇光天皇男系18世孫
霊元天皇女系8世孫
明治天皇女系皇孫
全名 多羅間 俊彦(たらま としひこ)
身位 王 →(皇籍離脱)
敬称 殿下 →(皇籍離脱)
出生 1929年3月24日
 日本、東京府東京市
死去 2015年4月15日(86歳没)
 ブラジル、サンパウロ

配偶者 多羅間勝子
(Alice Katsuco Hanashiro Tarama)
子女 多羅間稔彦
(Alfredo Tarama)

父親 東久邇宮稔彦王
多羅間鉄輔(養父)
母親 稔彦王妃聡子内親王

多羅間キヌ(養母)

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多羅間 俊彦(たらま としひこ、1929年〈昭和4年〉3月24日 - 2015年〈平成27年〉4月15日)は、日本の旧皇族で日系ブラジル人。東久邇宮稔彦王の第4王子。母は、明治天皇第9皇女・聡子内親王。旧名、俊彦王(としひこおう)。皇籍離脱前の身位は王で、皇室典範における敬称は殿下。兄に盛厚王、師正王、彰常王がいる。明治天皇の女系の孫であり、明治天皇の孫としてはもっとも年少。

人物・来歴
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1929年(昭和4年)3月24日、東久邇宮稔彦王と同妃聡子内親王の第4王男子として生まれる。

学習院に学び、陸軍予科士官学校へ進むが、在校中に太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦を迎える(61期、陸士最後の期)。

1947年(昭和22年)10月14日、皇室典範第11条1項により、皇籍離脱。後に当人は「皇籍を剥奪されても、特に何も感じませんでした。これでようやく身軽になれると思いました」と語っている[1]。

1949年頃、長年ブラジルで暮らしていた外交官多羅間鉄輔の未亡人多羅間キヌの養子となる話が持ち上がった。1950年秋に、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業してからは、ポルトガル語の勉強を始めた。両親は、ブラジル行きには強く反対しなかったという[2]。1951年にブラジルに移住[3][4]。キヌが所有していたサンパウロ郊外のリンスのコーヒー園を10年間ほど経営したのち、サンパウロに移り、ブラジル日本文化福祉協会理事会の副会長を務めるなど日系ブラジル人社会の中で活躍した。沖縄県出身の移民の資産家の娘と結婚した。夫人はブラジルで生まれたが、戦時中には沖縄での地上戦を経験し、そこで祖父を亡くしている。一男を授かった後、1970年にブラジルに帰化した[1]。

ブラジル移住後も、皇室及び東久邇家との関係は深かった。三笠宮崇仁親王とは年賀状の遣り取りをする間柄であった。敬宮愛子内親王と悠仁親王の誕生の際には現地祝賀会で祝辞を述べ、高円宮憲仁親王の薨去の際には 東久邇信彦を通じて弔意を伝えた。

同じ学習院出身だった作家の三島由紀夫とも親交があり、三島が1952年(昭和27年)に初の世界一周旅行でブラジルのリンスを訪れた際は、多羅間の農園に滞在した(三島の紀行記『アポロの杯』参照)[5]。

2008年(平成20年)6月、日本人ブラジル移住100周年記念式典出席のため訪伯した当時の皇太子徳仁親王が、イビラプエラ公園内の日本館と開拓先没者慰霊碑を訪れた際、案内役の一人として出迎えた。

2015年(平成27年)4月15日、心臓発作のため、ブラジル・サンパウロの自宅で逝去[1][4]。86歳没。

栄典
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1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[6]
家族
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祖父:久邇宮朝彦親王
祖母:寺尾宇多子
外祖父:明治天皇
外祖母:園祥子
実父:東久邇宮稔彦王(東久邇稔彦)
実母:稔彦王妃聡子内親王(泰宮聡子内親王、東久邇聡子)
兄:盛厚王(東久邇盛厚)、師正王、彰常王(粟田彰常)
妻:多羅間勝子(ポルトガル語: Alice Katsuco Hanashiro Tarama、花城清安次女。花城は1926年に沖縄からブラジルに移民した日系1世で、バナナ栽培で成功した日系人社会の重鎮[7])
子:多羅間稔彦(ポルトガル語: Alfredo Tarama)
養父:多羅間鉄輔(元外交官。山口県で生まれ、山口高等学校 (旧制)、東京正則国民英学会卒業後、1903年にスペインに留学、1906年より外務省書記生としてスペインで暮らし[8]、1914年在ブラジル日本公使館に転任、1923年バウル領事に就任し、1929年退官。1922年よりリンスでコーヒー園経営を始めていたが、1929年にコーヒーが暴落して厳しい生活を送り、1942年に失意のうちに病死[3])
養母:多羅間キヌ(群馬県渋川の吉田小源太三女。日本女子大学教育学部卒[3]。夫の没後も農園を続け、子がなかったため俊彦を養嫡子とした[3])
脚注
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注釈・出典
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^ a b c “ブラジルでひっそりと逝った「明治天皇の孫」”. 週刊新潮・矢来町ぐるり. 新潮社 (2015年4月30日). 2015年4月30日閲覧。
^ 「元宮様、南米へ養子に ブラジル元領事未亡人宅へ」
^ a b c d 多羅間鉄輔サンパウロ人文科学研究所
^ a b “■訃報■多羅間〃殿下〃亡くなる=皇籍離脱した明治天皇の孫”. ニッケイ新聞. (2015年4月17日)
^ 三島由紀夫『アポロの杯』(朝日新聞社、1952年)。『決定版 三島由紀夫全集第27巻・評論2』(新潮社、2003年)所収。
^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
^ 花城清安琉球文化アーカイブ、沖縄県立総合教育センター
^ 『蒼氓の92年: ブラジル移民の記録』内山勝男、東京新聞出版局, 2001, p146
関連項目
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東久邇宮
昭和22年10月14日の皇籍離脱
将校志望を断念した日本の人物の一覧
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