慶應こそが「東大制覇」の目撃者であり、被害者だった...「私立蔑視」と「国立崇拝」の歴史と背景
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慶應こそが「東大制覇」の目撃者であり、被害者だった...「私立蔑視」と「国立崇拝」の歴史と背景(ニューズウィーク日本版) - Yahoo!ニュース
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<明治維新以前から、私学・私塾の伝統がもともとあった>【尾原宏之(甲南大学法学部教授)】

国家のエリート養成機関として設立された最高学府「東大」の一極集中に対し、
反旗を翻した教育者・思想家がいた...。
彼らが掲げた「反・東大」の論理とは何か?
話題書『「反・東大」の思想史』(新潮選書)
の第1章「「官尊民卑」の打破――慶應義塾・福澤諭吉の戦い」より
一部抜粋。
■「私学の国」の夢 私立蔑視と官立(国立)崇拝は、
明治から現在に続く根強さを持っている。
しかし、教育学者の天野郁夫が「
もともとわが国は、明治維新の以前から私学の国であった」というように、
近代以前に私塾すなわち私立学校の果たした役割は大きかった。
中江藤樹の藤樹書院、伊藤仁斎の古義堂(堀川塾)、広瀬淡窓の咸宜園など、
師弟関係を原点とする私塾は、徳川政権の昌平坂学問所や各藩の藩校と並立して
学問と教育を担っていたのである(『大学の誕生』)。
歴史家の大久保利謙も、「近世の学問発達史を見ても、真に貢献のあつたのは官立学校でなく、寧(むし)ろ之等の私塾であつた」と指摘した(『日本の大学』)。
明治になってからも、ある時期までは私塾から発展した私立学校は光を放っていた。
1858(安政5)年に福澤諭吉が創設した蘭学塾を起源とする慶應義塾は、
明治初頭に入門者が増加し、塾舎の増築や出張所・分塾の開設、移転を繰り返して発展した
(『慶應義塾百年史』)。
大ベストセラー『西洋事情』を書いた代表的洋学者の私塾は、志ある全国の若者を惹きつけた。
ちょうど維新の混乱期で、明治新政府は学校どころではない。
「日本国中苟(いやしく)も書を読んで居る処は唯慶應義塾ばかりという有様」で、
洋学といえば慶應義塾という状態が5、6年は続いたという(『福翁自伝』)。
開塾5年の1863(文久3)年から1871(明治4)年までの入門者数は1329人を数える(「慶應義塾紀事」)。
『西国立志編』で知られる中村敬宇(正直)、自由民権運動を代表する思想家である中江兆民も、
それぞれ同人社、仏学塾という私塾を持っていた。
1873年創設の敬宇の同人社は、
福澤の慶應義塾、近藤真琴の攻玉塾(攻玉社)とともに明治の「三大義塾」と呼ばれたという。
1874年に開かれた中江兆民の仏学塾(はじめ仏蘭西学舎)は、名前が示すように
フランス語教育とフランス学が中心であり、モンテスキュー、ルソー、ヴォルテールなどのテクストを用いた。
仏学塾が刊行する雑誌『政理叢談』は、ヨーロッパの思想を紹介して
自由民権運動に強い影響を与えることになる。
ルソーの『社会契約論』をもとにした兆民の『民約訳解』が掲載されたのも、この『政理叢談』である。
夢物語にすぎないが、もし政府が官立学校を作らずに私学を育成する方針を選んでいたとしたら、
特色ある「同人社大学」「仏学塾大学」などが続々誕生し、慶應などと覇を競う別の世界が生まれたかもしれない。
少なくとも、後世の私立学校生が官学との格差に煩悶する事態にはならなかっただろう。
官学が存在しなければ私学差別は発生しないからである。
ところが、同人社も仏学塾も明治20年代にはその歴史を閉じ、いまや跡形もない。
私塾起源の私学は、近代日本の学問と研究の王座に君臨することなく、
東大を頂点とする官学がその地位を占め続けた。
1871年設置の文部省よりも前に創設され、
大きなプレゼンスを誇った慶應義塾は、私学の衰退、官学の隆盛を実体験しながら歴史を刻んでいくことになる。
慶應こそ東大の覇権確立の第一目撃者であり、第一被害者でもあった。
尾原宏之(甲南大学法学部教授)
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