【プレイバック’94】「松本サリン事件」すべてが謎…蒸し暑い夜の住宅街を襲った〝死の白い霧〟
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【プレイバック’94】「松本サリン事件」すべてが謎…蒸し暑い夜の住宅街を襲った〝死の白い霧〟(FRIDAY) - Yahoo!ニュース
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’94年6月28日の午前、鑑定のために河野さん宅に出入りする警察関係者。この日の夜に家宅捜索を受けることとなった(1994年7月15日号)
10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。
当時話題になったトピックをいまふたたび振り返る【プレイバック・フライデー】。
今回は30年前の1994年7月15日号掲載の「松本発 住宅街の恐怖『白い霧が7人を殺した』
毒ガスはこうして作られた」をお届けする。
【凄惨】ひどい…魚が池に浮かんで……松本サリン事件〝壮絶〟現場写真
1994年6月27日深夜に発生した「松本サリン事件」は
住宅街で発生した白い霧状の有毒ガスによって多くの犠牲者を出し、
全国を震撼させた。この記事が報じられた当時、この〝白い霧〟の正体はまだ判明していなかった
(以下《 》内の記述は過去記事より引用)。
◆被害者の生死を分けたのは……
《6月22日、長野県松本市内は日中30度を超す今年一番の暑さ。
夜に入っても湿度95%の蒸し暑さで、市民の多くは涼を求めて窓を開けた。
このごく自然な行為が人々の生死を分けることになった。
「午前1時頃に、激しい咳とクシャミ、猛烈な頭痛に見舞われたんです。
1時間ほど続いたため、仕方なく床についたんですが、
しばらくして警察の方が見えて異常を知りました。
助かったのはカゼをひいたと思いこんで
『悪化させては』と窓を閉めたままにしたからでしょう」
(死者3人を出したマンションに住んでいた会社員)》
住宅街で発生した白い霧状の有毒ガスによる死者7人(のちに8人)、約140人が負傷した。
死者6人を出した2つのマンションではガスを使っておらず、
また被害者にクシャミや鼻水、瞳孔縮小などの症状がみられた。
そのことから、農薬などに使われる有機リン系の毒ガスが屋外で発生して
部屋に流れ込んだのではないかと見られていた。
しかし、ガスの発生源はどこなのか? そしてなぜ発生したのか?
すべてが謎だらけだった事件は発生から24時間も経たないうちに急展開を迎えることとなる。
《28日夜から翌日にかけて長野県警は
事故の第一報者である会社員・Aさん宅を家宅捜索、薬品17~18種類を押収した。
当局はAさん宅の飼い犬が死んだり、庭木が変色している点を重視。
Aさんが庭先で除草薬を作製中に有毒ガスが発生したのでは、との見方を強めている。》
では7人もの死者が出るほどの〝殺人ガス〟とはどんなものなのか。
大阪大学医学部特殊救急部助教授(当時)は「あくまで推測」と断ったうえで次のように指摘していた。
《有機リン系ではあんな大量の死者が出るはずがない。燻蒸剤のクロールピクリンか、
殺虫剤に使われる臭化メチルかホスゲンだと思う。
臭化メチルやホスゲンは化学兵器にも使われている。
ある程度の知識があれば簡単に作ることもできる》
真相のカギを握ると思われるAさん自身もガス中毒で入院中。
一時の重態を脱して「警察の捜査には協力している」と、病院関係者は語っていた。
事件から1週間後の7月3日に長野県警は「原因物質はサリンと推定される」と発表した。
その一方でAさん宅の捜索で農薬などの薬品が押収されたこと、
「Aさん宅から不審な煙を見た」との証言があったこと
(のちに虚偽と判明)などから、事件発生当初、
本誌も含めほとんどのメディアは警察のリークなどをもとにAさんが
容疑者であるかのような報道を連日行っていた。
Aさん宅には全国から多くの誹謗中傷の手紙が送りつけられたといい、
後にメディアスクラムによる報道被害として問題となった。
しかし、7月下旬には警察の捜査でメチルホスホン酸ジメチルというサリンの生成過程にある薬品を
大量に購入していた人物が浮かび、その住所がオウム真理教の世田谷道場だったことが判明していたという。
さらにそれ以外にもオウム関連とみられる会社がいくつか
捜査線上にあがっていたのだが、その事実は発表されることはなかった。
さらに11月には異臭騒ぎが起きた山梨県・上久一色村のオウム施設周辺の土壌から
サリンの残留物質が検出されたことも報じられた。
捜査の手は徐々にオウムに迫っていたが、1995年3月20日に「地下鉄サリン事件」が発生してしまう。
松本の事件の容疑者としてオウムの麻原彰晃らが逮捕されたのは同年7月16日のことだった。
事件は裁判官官舎を狙ったもので、凶行を指示した麻原はサリンの威力を
実験したかったのではないかと、後に教団幹部らは語っている。
今年6月26日から28日にかけて、住人1名が亡くなった社員寮の跡地である公園に
事件の犠牲者を悼む献花台が設置された。
住人たちから供えられた色とりどりの花束、その反対側の公園の一角では
楽しそうに遊具で遊ぶ児童たちの姿があった。
児童の中には献花台の意味をたずねる子供もいたという。
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