イタリアでG7財務相・中央銀行総裁会議が開幕

5/25 (土) 01:15

配信より
イタリアでG7財務相・中央銀行総裁会議が開幕
イタリアでG7財務相・中央銀行総裁会議が開幕

 G7(先進7カ国)の財務相・中央銀行総裁会議が24日、イタリアで開幕しました。

 

凍結されたロシア資産をウクライナ支援にあてる方策などが議題となります。

 

 G7財務相・中央銀行総裁会議はイタリア北部のストレーザで24日に開幕し、

 

日本からは鈴木財務相と日銀の植田総裁らが出席しています。

 

 日程は25日までの2日間で、凍結されたロシア資産をウクライナ支援に活用する方策や、

 

中国による電気自動車や太陽光パネルの過剰生産への対応などが主な議題となります。

 

 また、AI(人工知能)の経済や金融分野への活用や課題についても、話し合うとみられ、

 

25日に共同声明を発表して閉幕する予定です。

 

私のコメント :  令和6年5月25日、G7(先進7カ国)の財務相・中央銀行総裁会議が令和6年5月24日、イタリアで開幕しました。

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慶長遣欧使節
慶長遣欧使節とは

配信より
 
支倉常長(1571~1622)

写真/「支倉常長像」仙台市博物館所蔵

 

東日本大震災直後の月浦

東日本大震災直後の月浦

 

夕焼けマスト

伊達政宗と慶長遣欧使節

慶長遣欧使節とは今から約400年前、仙台藩主伊達政宗が仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに派遣した外交使節です。
使節に選ばれた政宗の家臣支倉常長は、宣教師ルイス・ソテロとともに、仙台藩内で建造された洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ」で太平洋を渡りました。常長はメキシコを経てスペインに至り国王フェリペ3世に謁見、さらにローマに入り教皇パウロ5世に拝謁しました。しかし、幕府のキリスト教弾圧などから目的を達することができず、7年後の1620年、仙台へと戻りました。

使節に支倉常長が
選ばれたのはなぜ?

朝鮮出兵の際海外で過ごした経験や、鉄砲組・足軽組頭の経験から一行を統率する能力を評価されたという説があります。
また、一度実の父が罪を犯し、常長も仙台藩を追放されていますが、能力を惜しんだ政宗が名誉挽回の機会を与え、慶長使節の大使という大役を任されたとも言われています。
いずれにしても史料が失われているため、その真相はわかっていません。

仙台藩を襲った慶長大津波

2011年の東日本大震災からちょうど400年前の1611年12月、東日本大震災による大津波と同規模の「慶長大津波」が仙台藩を襲った記録が残されており、震災以後、これまでほとんど注目されなかった慶長大地震と慶長使節の関係が着目されるようになりました。
徳川家の記録である『駿府記』には、この震災により仙台領だけで5,000人を超える死者を出したという記録があります。仙台藩の正史とされる『貞山公治家記録』では、1,783人の死者を出したと伝えられています。また、使節派遣に重要な役割を担うセバスチャン・ビスカイノは、仙台領三陸沿岸を探索中でしたが、海上で大津波に遭遇した記録を残しています。

使節派遣の意図と仙台藩の復興

この慶長大津波からわずか2週間後、政宗は造船と慶長使節派遣の構想を明らかにし、その2年後、サン・ファン・バウティスタは月浦からヨーロッパへ向かって出帆しました。
このような事実を踏まえ、改めて慶長使節派遣の意義を問い直してみたとき、この計画には大きな災害から立ち直るための強い意志が託されていたのではないか、という新しい解釈が生まれます。
政宗と常長が目指した海外との貿易は、物資の流通のみで終わるのではなく、文化や技術・情報・人の交流ももたらしてくれます。そしてそれは復興の基盤になりえます。
私たちが経験した東日本大震災のちょうど400年前、まさに復興の最中に、慶長遣欧使節は大航海時代に打って出たのです。使節を派遣した伊達政宗は、震災によって大きく傷ついた仙台藩を、より良い国に発展させようとしたのではないでしょうか。