第850回:気がつけば17年 「フィアット500」がイタリア人から愛される理由
2024.03.14 マッキナ あらモーダ! 大矢 アキオ
第850回:気がつけば17年 「フィアット500」がイタリア人から愛される理由 【マッキナ あらモーダ!】 - webCG
配信より
20年前のコンセプトカーの雰囲気を市販車に
フィアットの歴史部門「FCAヘリティッジ」は2024年3月4日、「フィアット500ハイブリッド」の特別仕様車「トリブート トレピューノ」を発表した。
2004年の同日に現行500の原型であるコンセプトカー「トレピューノ」が公開されてから20年を記念したもの。トレピューノに近い内外装色を採用しており、ダッシュボードのパネルには、フィアットオート(当時)でアドバンストデザインを担当し、現在FCAヘリティッジの代表を務めるロベルト・ジョリート氏のスケッチがプリントされている。購入希望者はイタリア・トリノのFCAヘリティッジに問い合わせる。
この特別仕様車の発表を機会に、今回はフィアット500がなぜ成功したのかについて、イタリア在住者の視点から考察する。
トレピューノが誕生した2004年のフィアットがどのような状態であったかを振り返ろう。当時の同社は、1996年から1998年まで会長を務めたチェーザレ・ロミティ氏による財務優先の経営の影響がまだ残っていた。その結果、競合他社を上回る商品性を備えた車種に乏しくなり、それが販売を直撃する。1997年に8.61%だった欧州でのシェアは、2003年には半分以下の4.03%にまで急落した(データ出典:Good car bad car)。
2003年には創業家出身のジョヴァンニ・アニェッリ名誉会長が死去。2004年5月には弟ウンベルトも後を追うようにこの世を去った。2000年3月に締結した米国ゼネラルモーターズとの資本提携は、さしたる相乗効果をあげられないままだった。イタリアのメディアでは、フィアットはどの会社に身売りするのか? といった臆測記事がたびたび見られた。
トレピューノが公開された2004年の欧州における市販車ラインナップは貧弱だった。主力車種であった2代目「プント」は、すでにデビューから5年が経過。「ムルティプラ」「セイチェント」も6年が過ぎていた。2001年に投入された「スティーロ」は「フォルクスワーゲン・ゴルフ」をライバルとしたものの、それには到底及ばず、ワールドカーとしてブラジル工場でつくられた「パリオ」シリーズの存在感は限りなく薄かった。目新しいのは前年である2003年に発表された2代目「パンダ」とミニMPV「イデア」だけであった。
そうしたなか公開されたコンセプトカーがトレピゥーノだった。trepiunoとはtre più uno(3+1)に由来する造語である。基本的には、助手席を前方にずらし、かつ助手席側ダッシュボードの下半分を畳んで後席1人分のスペースを稼ぐ3人乗りで、必要に応じて運転席後部を補助席に、もしくはシート座面・背面を山折りにして荷室を拡大するという提案だった。以後、生産化までの経緯は、筆者による2006年8月の記事をご高覧いただきたい(参照)。