本堂倒壊の寺で四十九日法要 被災の住職「半歩でも進んでいきたい」

朝日新聞社配信より

 

本堂倒壊の寺で四十九日法要 被災の住職「半歩でも進んでいきたい」(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

配信より

 

妙厳寺の庫裏で執り行われた四十九日の法要=2024年2月18日午後3時11分、石川県珠洲市宝立町鵜飼、金居達朗撮影

 

能登半島地震の発生から「四十九日」にあたる18日、

 

石川県珠洲市宝立町鵜飼の妙厳寺(みょうごんじ)で、地震の犠牲者らの法要が執り行われた。 

 

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寺の本堂は地震で倒壊したため、住職ら家族が生活していた庫裏(くり)の中で、寺の関係者だけで厳かに営まれた。  

 

法要を務めたのは武内亨(たけのうちとおる)住職(57)と、弟の武内現(あきら)副住職(47)。

 

武内住職は、自身も被災し、避難生活を送っている。

 

法要は「寺として当然の務め」とし、

 

「本来、自分の心に区切りをつける意味のある四十九日。今回の地震で傷めた心に区切りをつけるのは難しいが、過去には戻れないので、半歩でも進んでいきたい」

 

と話した。

 

(金居達朗)

 

朝日新聞社

 

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私のコメント :  令和6年2月18日、能登半島地震の発生から「四十九日」にあたる令和6年2月18日、石川県 珠洲市 宝立町鵜飼の妙厳寺では、地震の犠牲者らの法要が執り行われた。
 
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總持寺祖院

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 配信より

 
(中略)

 

總持寺祖院(そうじじそいん)は、石川県輪島市門前町門前にある曹洞宗の寺院である。山号は諸嶽山。通称能山(のうざん)あるいは岳山(がくざん)。

 

かつての曹洞宗の大本山「總持寺」。本山の機能が神奈川県横浜市へ移転する際に、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」は「總持寺祖院」と改称され別院扱いとなる。

歴史[編集]

元は諸岳寺(もろおかじ)と呼ばれた行基創建と伝えられる密教系寺院(一説には真言宗[1])。

1321年元亨元年)に当時の住持である定賢が霊夢を見て、越中国永光寺にいた瑩山紹瑾に寺を譲った。瑩山紹瑾はこれを禅林として改め、総持寺と命名して開山となった。

翌年、瑩山紹瑾は後醍醐天皇よりの勅問10問に答えた褒賞として、同寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の寺額が授けられたとするが、伝説の域を出ないと言われている。

1324年正中元年)、瑩山紹瑾は「諸岳山十条之亀鏡」を定めて寺制を整えた。その後、寺を継承した峨山韶碩によって整備され、五哲と呼ばれた門人によって5か所の子院が設けられた。曹洞宗の多くの寺院が同寺の系統をひき、本山の地位や諸権利を巡って越前国永平寺と論争を行うこともあったものの、「能登国の大本山」すなわち能山として親しまれた。

室町幕府や地元の能登畠山氏長谷部氏の庇護を受ける。

1570年元亀元年)の戦乱で焼失したものの、新領主の前田氏のもとで再興される。

1657年明暦3年)には寺領400石が与えられるなど、加賀藩時代を通じて手厚い保護を受けた。

また、江戸幕府1615年元和元年)永平寺・總持寺をともに大本山として認めるとともに徳川家康の意向で1,000両が寄付されて幕府祈願所に指定された。住持の地位は5つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)による輪番制が採られたが、1870年明治3年)の栴崖奕堂以後独住の住持が置かれた。

1898年(明治31年)4月13日の大火で開山廟所である伝燈院経蔵といくつかの小施設を除いた全山を焼失した[2]

1905年(明治38年)再建されたものの、これを機により大本山に相応しい場所への移転を求める声が高まる[3]

1911年(明治44年)11月5日、横浜鶴見への移転遷祖の儀式が行われ、以降能登の總持寺は「總持寺祖院」と呼ばれるようになった。

2007年平成19年)3月に能登半島地震が発生。伽藍が傾くなど境内の建物30棟すべてが被害を受けた[4]。その後は修復工事が進められ、開創700年目の2021年令和3年)4月に落慶法要が営まれた[5]。なお、2008年(平成20年)3月に仏殿・法堂などが国の登録有形文化財となっている[6]

2024年令和6年)1月1日令和6年能登半島地震が発生し、国の登録有形文化財17棟を含む七堂伽藍や回廊などが倒壊[7][8]。前述の2007年の地震による被害箇所が修復され、總持寺開祖・瑩山の700回忌法要に向けた記念行事などを控える矢先での被災となった[7][8]

(中略)