《阪神・淡路大震災29年》震災を知らない世代「未来の神戸、創りたい」曽田みなみさん・山本小湖さん

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《阪神・淡路大震災29年》震災を知らない世代「未来の神戸、創りたい」曽田みなみさん・山本小湖さん(ラジトピ ラジオ関西トピックス) - Yahoo!ニュース

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阪神・淡路大震災後に生まれた曽田みなみさん(左)と山本小湖さん「震災を知らずとも、これからの神戸を創りたい」<2024年1月10日撮影>

 

 神戸は「美しくて、おしゃれ」。神戸港を中心とするウォーターフロントを眺め、北野町の異人館や、元町の旧居留地といったレトロな建物を見て、港から海外文化を取り入れ、栄えてきた街というイメージを持つ。

 

  【画像】震災を知らない世代「未来の神戸、創りたい」  

 

しかし、29年前の1月17日、この美しい神戸が一瞬にして崩れた。神戸だけではない。多くの人々が生活する阪神間や震源の淡路島も、瞬く間に破壊された。  神戸の生活雑貨通販大手・フェリシモに務める2年目の山本小湖さん(24)と、3年目の曽田みなみさん(25)。2人とも、阪神・淡路大震災を直接経験していない、「知らない」世代。  物心ついたころには「すでに起きた出来事」としての認識はあった。しかし、日が経つほどに過去のものとなってゆく。風化させてはいけない気持ちはあるが、“伝える使命感”は芽生えてこなかったという。  こうした中、2024年の元日に「災害は他人事ではない」と感じる出来事が起きた。能登半島地震。前年(2023年)、新型コロナウイルスが感染法上の分類で5類となり、4年ぶりに規制のない年末年始を過ごそうとした矢先だった。  この日、2人はそれぞれ海外にいた。  山本さんはヨーロッパ旅行をしていた。家族は気遣い、能登半島地震のことは知らせなかった。フランスからベルギーへ向かう列車の中で、さまざまな人が発信するX(旧・ツイッター)を見て地震を知ったという。石川県内に住む友人がひんぱんにSNSをアップするのに、全く更新されない。ようやく1週間後に更新されて安心したが、「災害は時と場所を選ばない」ことを思い知ったという。  曽田さんも友人とオーストリアへ旅立ち、トランジットのためベトナム・タンソンニャット空港で待機していた。石川県出身の友人のインスタグラムにアップされた実家の様子を目にして、能登の地震を知った。幼いころに起きた東日本大震災の記憶は少しあったものの、「いつ、どんな場所にいても日本は地震から逃れられない」。いたたまれない気持ちになった。 

 

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「神戸は震災復旧のために都市開発が後回しになったのかな」と考えていた山本さん。神戸から北西に離れた兵庫県加東市で生まれた。生粋の神戸人でないからこそ、冷静に被災地としての神戸を見ることができるのかも知れない。  山本さんは「神戸は関西のひとつの都市として機能しても、日本の都市としては遅れを取っているのではないか、大きな転換が必要だ」と考えている。メリケンパークの整備など少しづつ変わりつつあるのはわかっていても、核となるような空間がないことに物足りなさを感じるという。神戸出身の友人が「神戸より、東京で働きたい」と話したことも印象深かった。  地元・兵庫をもっと盛り上げたいという気持ちは大きい。特に神戸市の人口減少や転出超過など課題はあるが、三宮の再開発や神戸空港の国際線就航などの明るいニュースもたくさんあり、少しづつ神戸を活気あふれる魅力のある街へ変える事ができればと考えている。  今年(2024年)春にリニューアルオープンするポートタワーのプロデュースなども手掛け、街づくりの一端を担うことになり、期待を寄せるようになった。「ひょっとして、これが変化なのかな」。神戸・兵庫の発展の兆しをようやく感じた気がするという。  兵庫県三木市の祖父母宅では家の石灯篭が倒れ、食器棚が傾き、お皿が滑り落ちてきたという話は何度も聞いた。小学生のころは毎年1月17日に黙とうをして、避難訓練をして、阪神・淡路大震災を考える特別授業を受けたが、年々震災のことを考える時間が少なくなっていった。  率直な思いとしては、「怖いな」「大変だったな」という表面的なもので、山本さんの世代で震災と言えば、2011年の東日本大震災の災害としてのリアリティーが強かったという。  ただ、こうした災害が起きた時にどう対処するか、社会人となり、通勤中や仕事中に被災したら…ということは考える。建物の耐震に関しては進んでいるが、交通機関がストップしたときに帰宅困難になることや、神戸は海に面しているため津波の心配もあり、各自が自分を守る行動を取れるように心がける事が大切だと感じている。  フェリシモの本社は神戸港・新港第一突堤に近く、まさに海の目の前にあるので、入社試験の面接で「津波がきた時の想定はあるのか」と尋ねたという。学生時代、特に防災について学んだわけではないが、自然に出た質問だった。  山本さんは、「神戸市の海沿いにある企業同士で津波や地震がきた時に協力し、ともに助けあえる協定を結ぶことができれば理想的」と話す。これが共助の思い。そして、「夢みたいな話かも知れないが、みんなが助かるように地上ではなく、空中に避難場所があれば」と、将来的なインフラは何かを考えるようになった。  ”伝える使命感”より、“救うための責任感”。たとえリアルに震災は知らなくても、未来を形づくることはできる。 

 

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曽田さんは神戸市東灘区出身。かつて大震災があったとは考えられないほど美しい神戸の街で快適さを感じている。  当時の惨状をリアルで見たことがない。実感がわかない。「コンパクトな街で、坂が多いものの、自転車さえあればどこへでもいける。山に登ると、すぐ近くに海を見渡せる、海と山をすぐそばで感じられる神戸の風景は他にない」と神戸の魅力を話す。  一方、再開発ラッシュで、街そのものが新しく変わろうとしている神戸を見て思うことがある。地元の岡本や摂津本山(いずれも神戸市東灘区)などに小さいお店や商店街、古い歴史のある建物が残っていたが、そんな街並みも大型の商業施設などに変わり、神戸ならではの良さが薄れていることに寂しさを感じていた。  曽田さんの両親は震災当時、神戸を離れていたので、震災の話を聞く場は学校しかなかった。小・中学校では毎年1月になると防災訓練が始まり、被災者の方の話を聞き、防災について考える、それがルーティンのようになっていたと振り返る。  メディアが震災を取り上げ、倒壊した阪神高速道路や長田の火災、三宮・東遊園地などの被災当時の神戸市街地の映像を目にする。毎年、その時期になると風化を防ぐための報道という趣旨は理解しているが、なかなか“自分事”にならなかった。震災のことについて友人と話すこともなく、1.17が過ぎると震災のことは忘れてしまう自分がもどかしかった。  ただ、東日本大震災が発生した日のことは鮮明に覚えている。3.11以降は、日本が地震大国であることや、神戸の街も大きな震災を乗り越えた街であることを改めて考えるようになったという。リアルで目にした大地震の恐ろしさと、断片的に聞いていた神戸の惨状が交錯して、とてつもなく恐ろしい出来事が自分の前に立ちはだかったような気がした。  そして大学生になり、阪神・淡路大震災を知らない学生たちが、震災を後世に伝えていこうと活動する姿を追った報道を目にした。その時、学生たちが「生まれてないから」を言い訳にせず神戸の街を知ろうとする姿を見て、神戸で生まれ育ち、社会人としてのスタートも神戸で、と思う曽田さんの心が動いた。  「毎年、震災の授業を学校で受けてきたはずなのに、自分の中に何も残っていない…」このはがゆさ。その頃、大学の「卒業制作」を考えていた時期でもあり、神戸の街を知るきっかけになるかもしれないと、震災をテーマにしたものづくりをしようと動き始めた。  まずは知ることからと、震災を経験した人々へのインタビューや図書館での文献探しなど、情報収集に奔走した。とにかく手探り。  家族を亡くした人や、神戸在住でも被災を免れた人の気持ち、故郷の神戸・阪神間の被害を遠く離れた場所から画面越しで見つめるしかなかった人など、様々な気持ちを抱えていた事実を知り、胸が痛んだ。  学校で受けていた震災に関する授業の内容よりも鮮明に心に残る。インタビューを重ねて行く中で、震災を知る大人と、知らない子どもを繋ぐきっかけになれるものは作れないかと考え、「仕掛け絵本」を作った。  この「仕掛け絵本」は、年齢問わず、本のストーリーの世界観に引き込まれるように仕上げた。一般的な絵本とは異なり、1ページごとに動きをつけ、子どもから大人まで、絵本の世界観により中に引き込まれるようにした。 「神戸で生まれる子どもたちへ、震災を少しでも身近に感じてもらいたい」との思いを込め、震災当時の神戸の風景からはじまり、灯りが少しずつ神戸の街を照らす様子を1冊にまとめた。  震災を知る大人と知らない子どもをつなぎ、「あの時どんなことがあったのだろうね」とコミュニケーションができるきっかけになってもらえたらと思っている。  曽田さんは絵本作りをきっかけに、神戸の街をより大切にしたい気持ちが強くなった。そして、いつの日か子どもたちと一緒に絵本を読み、神戸の街について話ができる日を待ち望んでいる。

 

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