安倍派幹部6人に裏金か 塩谷・松野・高木・世耕・萩生田・西村氏

朝日新聞社配信より

 

安倍派幹部6人に裏金か 塩谷・松野・高木・世耕・萩生田・西村氏(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

 

裏金のキックバックを受けた疑いがある安倍派幹部6人

 

自民党最大派閥の「清和政策研究会」(安倍派)が政治資金パーティー収入の一部を裏金化していたとみられる問題で、同派の中枢幹部6人のうち、松野博一官房長官のほかの5人も、直近5年間でそれぞれ1千万円超~約100万円の裏金のキックバック(還流)を派閥から受け、政治資金収支報告書に記載していない疑いがあることが、関係者への取材でわかった。

 

  【一覧表】安倍派から裏金のキックバックを受けた疑いがある派閥幹部6人とそれぞれの金額 

 

■1千万円超~100万円  

全6人の安倍派の中枢幹部は、事実上トップの「座長」を務める塩谷立・元文部科学相と、派閥の有力者で「5人衆」とされる松野氏、高木毅・党国会対策委員長、世耕弘成・党参院幹事長、萩生田光一・党政調会長、西村康稔経済産業相。

 

裏金問題は、松野氏に加えて、岸田文雄首相を支える党幹部や重要閣僚に幅広く波及した。

 

朝日新聞社

 

【関連記事】

 
私のコメント :  令和5年12月9日、政界 過去 総理大臣経験者 における、当時における、非情な境遇におかれた それぞれの 怨念の深さ 等 知っている、また、当時、その感じたことのある 方々には、今後の展開も、ある程度、予想ができると推察しています。
 
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橋本龍太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』配信より

 日本の政治家

橋本 龍太郎
はしもと りゅうたろう

生年月日 1937年7月29日
出生地  日本 岡山県総社市
没年月日 2006年7月1日(68歳没)
死没地  日本 東京都新宿区(国立国際医療研究センター)
出身校 慶應義塾大学法学部卒業
前職 呉羽紡績従業員
所属政党 自由民主党(佐藤派→田中派→橋本派)
称号 正二位
 大勲位菊花大綬章
法学士(慶應義塾大学・1960年)
岡山県総社市名誉市民
剣道教士六段

配偶者 妻・橋本久美子
子女 橋本岳(次男)
親族 加納久宜(義曽祖父)
中村雄次郎(義曽祖父)
阪谷芳郎(義曽祖父)
橋本卯太郎(祖父)
大野緑一郎(祖父)
若宮貞夫(義祖父)
加納久朗(義祖父)
中村貫之(義祖父)
橋本龍伍(父)
橋本大二郎(弟)
自見英子(義娘)

第82-83代 内閣総理大臣

内閣 第1次橋本内閣
第2次橋本内閣
第2次橋本改造内閣
在任期間 1996年1月11日 - 1998年7月30日
天皇 上皇(明仁)
 規制改革担当大臣

内閣 第2次森改造内閣(中央省庁再編後)
在任期間 2001年4月1日 - 2001年4月26日
 沖縄及び北方対策担当大臣

内閣 第2次森改造内閣(中央省庁再編後)
在任期間 2001年1月6日 - 2001年4月26日
 第42代 沖縄開発庁長官

内閣 第2次森改造内閣(中央省庁再編前)
在任期間 2000年12月5日 - 2001年1月6日
 第93-94・103代 大蔵大臣

内閣 第1次海部内閣
第2次海部内閣
第2次海部改造内閣
第2次橋本改造内閣
在任期間 1989年8月10日-1991年10月14日
1998年1月28日 - 1998年1月30日(総理兼任)
その他の職歴

 副総理
(村山改造内閣)
(1995年10月2日 - 1996年1月11日)
 第57代 通商産業大臣
(村山内閣、村山改造内閣)
(1994年6月30日 - 1996年1月11日)
 第57代 運輸大臣
(第3次中曽根内閣)
(1986年7月22日 - 1987年11月6日)
 第56代 厚生大臣
(第1次大平内閣)
(1978年12月7日 - 1979年11月9日)
 衆議院議員
(旧岡山2区→)
岡山4区
当選回数 14回
(1963年11月21日 - 2005年8月8日)
 第17代 自由民主党総裁
(1995年9月22日 - 1998年7月24日)
 第29代 自由民主党幹事長
(総裁:宇野宗佑)
(1989年6月 - 1989年8月)
 第39代 自由民主党政務調査会長
(総裁:河野洋平)
(1993年 - 1994年)
 自由民主党幹事長代理
(総裁:竹下登)
(1987年11月 - 1989年6月)

橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年〈昭和12年〉7月29日 - 2006年〈平成18年〉7月1日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位菊花大綬章。学位は法学士(慶應義塾大学)。岡山県総社市名誉市民[1]。剣道錬士六段。

衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、大蔵大臣(第93・94・103代)、通商産業大臣(第57代)、副総理(村山改造内閣)、内閣総理大臣(第82・83代)、沖縄開発庁長官(第42代)、行政改革担当大臣(初代)、沖縄及び北方対策担当大臣(初代)、規制改革担当大臣(初代)、自由民主党幹事長(第29代)、自由民主党政務調査会長、自由民主党総裁(第17代)を歴任した。

来歴[編集]
初当選以来自由民主党に所属し、衆議院議員を14期にわたって務める。また第1次大平内閣で厚生大臣に就任し、昭和2ケタ生まれで初めて入閣を果たしたのを皮切りに運輸大臣・大蔵大臣などを歴任し、いわゆるニューリーダーの後を担う総裁候補と目されるようになった。

竹下派七奉行の一人であり、1990年代の日本の政界を代表する政治家である。ポマード頭と呼ばれた独特の髪型がトレードマーク。剣道教士六段の称号・段位を持つ。

1994年に発足した「自社さ連立政権」の村山内閣では通商産業大臣を務め、自由民主党総裁就任に伴って副総理を兼務し、1996年の村山富市首相退陣に伴い、内閣総理大臣に就任する。

在任中は住宅金融専門会社問題(住専問題、第136回国会)や行財政改革に取り組み、外交面ではアメリカのクリントン大統領・ロシアのエリツィン大統領と親交を深める。第18回参議院議員通常選挙での自民党惨敗を受け引責辞任した後も、同期当選の小渕恵三首相の下で外交特別顧問に就任し、その後も第2次森改造内閣で行政改革担当大臣や沖縄開発庁長官を、また中央省庁再編後には規制改革担当大臣や沖縄及び北方対策担当大臣を歴任。

2001年自由民主党総裁選挙に再起を期して出馬するが、小泉純一郎に敗れる。2005年に政界を引退し、地盤を次男の橋本岳に譲る。翌2006年に死去[2]。68歳没。

生涯[編集]
生い立ち[編集]
東京府東京市渋谷区(現:東京都渋谷区)に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれた。母・春は警視総監・朝鮮総督府政務総監などを歴任した大野緑一郎の長女であったが、中耳炎をこじらせて龍太郎を出産した5か月後に急死した。官僚である父・龍伍には転勤がつきものだったため、武家(旧:熊本藩士)の出である祖母の真都に育てられた[3]。なお、龍伍は戦後政界に進出し、吉田茂の側近となる[4]。

学生時代[編集]
田園調布小学校に入る前の7歳の時に、継母・正を迎えた[5]。

麻布中学受験の際、橋本の受験番号は“1073番”だったが一番違いの“1074番”に作家の安部譲二がいた。それが縁で仲良しになり、2人は中学3年間を通じて同じクラスだった[6]。

麻布中学入学時から橋本は学校の勉強に全くついていけず、成績は常に圧倒的最下位だった。このことについて周囲は、政治家の息子なので橋本は裏口入学だ、と暗黙の了解事項として理解していた[7]。

麻布中学時代の橋本龍太郎のニックネームは「サル」[7]。

麻布中学時代、橋本龍太郎の試験の点数は殆ど0点ばかりだったにも関わらず麻布高校に進むと山岳部に所属した。高校時代は登山に明け暮れてそれほど勉強をしなかったため、橋本の成績は中位くらいだったという記述もある[8]。また、大学入学後にはもう一つの趣味であった剣道にも力を入れた[9]。

1956年、慶應義塾大学法学部政治学科に入学。橋本には、腰椎カリエスによって足に障害を負っていた父・龍伍に門戸を開いてくれた唯一の高等学校であった、慶應に対する一入の思い入れがあり、以後並々ならぬ愛校心を抱き続けた[4]。父にとっても橋本の慶應義塾大学の合格は大きな喜びだったようで、「龍伍が慶應義塾を語るとき、その目は輝いていた」という[10]。大学時代の思い出となった講義では中村菊男の明治・大正の政治家の逸話を挙げている[11]。

橋本龍太郎は大学でも剣道に力を入れた。とにかく前に出て攻めていたので“突貫剣士”というニックネームをつけられていた[10]。なお目の下には傷跡が残っていたが、大学時代軽井沢の別荘に行った時にチンピラと殴り合ってナイフで切られた名残であるという[12]。

大学卒業後、呉羽紡績株式会社(のち東洋紡に吸収合併。クレハは分社した化学部門)に入社した[4]。

政治家の道へ[編集]
社会人3年目の1962年、父・龍伍が急死した。橋本龍太郎は会社に出勤してから2時間後に父の訃報を聞いたという[13]。

父の意中の後継者は弟・大二郎であり、龍太郎本人も政界に進むつもりはなかった。後に橋本は「親父は僕を政治家にするつもりはなかったし、僕も全くやる気はなかった。腕白坊主だったから」と述べている[14]。

しかし、当時未成年であった橋本大二郎は被選挙権を得ておらず、橋本の継母・正に出馬を求める声も上がったが、父と親交の深かった佐藤栄作による指名を受け、橋本龍太郎が亡父の後継者として選挙に出馬することになった[4][15]。立候補が決まった橋本龍太郎は、当時の西村英一厚生大臣にお願いして、父が大臣を務めた厚生省の会議をまんべんなく見学、実務を熟知しているノンキャリアの課長補佐に貼り付くように質問をしながらノートを取り続けて猛勉強しており、その姿は政治記者だけでなく厚生省を取材していた社会部記者も感心していたという[16][17]。

1963年の総選挙で橋本龍太郎は衆議院議員選挙で初当選する。開票結果は選挙戦前の予測を上回る7万4564票で、江田三郎に次いで2位の得票数だった。この選挙で小渕恵三(のち首相)も初当選を飾った[4][18]。

初登院の時に継母・正が付き添ったことから、マスコミからは「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と揶揄され[19]、「マザコン代議士」と冷やかす報道もあった[20]。橋本龍太郎本人は、秘書代わりに選挙で苦労した母に対する労いの気持ちから出た行動であると説明している。

議員当選後に遠縁に当たる久美子と結婚。久美子はカトリックだったため、六本木のチャペルセンターで結婚式を挙げた。媒酌人は佐藤栄作。佐藤家と橋本家は軽井沢の別荘も隣同士ということで毎夏顔を合わせる仲であり、父が亡くなった時、佐藤栄作が葬儀委員長を務めた[21]。そういった関係でもあり、橋本は自民党内の派閥では、佐藤派に所属した。

1969年の第32回衆議院議員総選挙では選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長の田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。この事により、佐藤派内で橋本龍太郎は田中、竹下に傾倒するようになった。佐藤栄作引退を受けての自民党の総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤栄作が福田赳夫を支持するように示唆したが、橋本はこれを固辞し、田中派に参加した。

枢要ポストを歴任[編集]
1978年12月7日、橋本龍太郎は第1次大平内閣で厚生大臣に任命された。当選5回にしての初入閣であり、「親子二代の厚相」としてマスコミにも取り上げられた。昭和2ケタ生まれの閣僚は、橋本が初めてであった。厚相在任中はスモン訴訟の和解に尽力した[22][23]。ちなみに、次男の橋本岳は厚生労働副大臣を務めている。

水俣病の患者らが厚生省に押しかけ、死亡者補償が交通事故死の補償より安かったことについて抗議したことがあった。しかし、応対した橋本龍太郎は、患者らの「人命軽視だ」という批判に対して、「政府が人命を大事にしなかったことがあるか!取り消せ!」と激怒し、とりなした厚生省幹部を「黙ってろ!」と怒鳴りつけた[24]。

その後、橋本龍太郎は竹下登を中心とする創政会の結成に参画し、その後の経世会においても中心人物の一人となり竹下派七奉行の一角を占めた。

1986年7月22日、第3次中曽根内閣では運輸大臣に就任し、政権の主要政策である国鉄分割民営化で辣腕を振るった[4]。大臣在任中、橋本の似顔絵が描かれたオレンジカードをつくり、希望者(友人らを中心に、一般国民も大臣に手紙を書けば貰えたという)に無料で配布した。イラン・イラク戦争の際、海上保安庁の巡視船を派遣する案が事務レベルで調整された際には「一番船には僕が乗っていく」との決意とともに承諾したが、結局後藤田正晴内閣官房長官の反対により実現しなかった[25]。

1987年には竹下内閣で自民党の幹事長代理に就任し、病気療養中であった幹事長の安倍晋太郎に変わって調整役を担い[4]、消費税導入や昭和天皇の大喪の礼に対して党側の実務を担当した。

総裁候補へ浮上[編集]
1989年、宇野内閣成立時には橋本龍太郎は幹事長代理としての実績・手腕が評価され、自民党の幹事長に昇格した。宇野政権においては、リクルート事件や消費税の影響に加えて、宇野宗佑本人の女性スキャンダルが噴出した。一方で、不人気の宇野首相に代わって自民党幹事長の橋本龍太郎は自民党の先頭に立って日本各地を積極的に遊説し、橋本は全国的に国民的知名度を得るに至った。政権与党である自民党がかつてないほどの厳しい逆風にさらされた1989年7月の参院選では、自民党は議席を大幅に減らし大惨敗した。その際に、橋本の「ちくしょう!やっぱりこれだけ(差が)開いたか[26]」とチェリーを喫煙しながら悔しがるシーンがテレビで放映され、その眉目秀麗ぶりと併せて話題となった[4][27][28]。

宇野宗佑が総理を辞任すると、橋本龍太郎は次の後継候補に浮上し、本命視された。しかし、女性問題を理由に自派閥の支持が伸び悩み、盟友・安倍晋太郎への配慮から世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信や小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野宗佑の後継には海部俊樹が就任した。当時、竹下派の最有力の後継会長候補と見られていた橋本龍太郎と小沢一郎は、このころからたびたび対立を繰り返して、「一龍戦争」と呼ばれた。

1989年8月、第1次海部内閣では、橋本龍太郎は大蔵大臣に就任し[29]、第2次海部内閣でも留任するが、1991年10月、証券不祥事などで大蔵大臣の職を引責辞任した。

1992年10月、竹下派(経世会)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれ、竹下派の後継会長の座を巡って小沢派と反小沢派が対立する。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕恵三との争いの末、小渕恵三が派閥領袖と決まり経世会は小渕派となった。橋本は小渕と協力し、小沢・羽田派は経世会を離脱して「改革フォーラム21」(羽田派)を立ち上げた。経世会の副会長に就任していた橋本龍太郎は、そのまま小渕派副会長として小渕と行動を共にした。

この間の1991年12月に弟の橋本大二郎が高知県知事選挙に立候補し、当選した。この時の知事選挙では、橋本龍太郎は自民党推薦の候補と対決し、高知県の街頭演説では、弟の大二郎の横に立って「自慢の弟です!」と弟への支持を聴衆、有権者に呼び掛けた。

1993年の総選挙の時には、当時の自民党政治家で高い人気を誇った橋本龍太郎、河野洋平、石原慎太郎は「三本の矢」と呼ばれ、全国遊説で奮闘した[30]。しかし、総選挙の後には細川内閣が成立し、自民党は野党に転落した。宮澤喜一首相の後継総裁に後藤田正晴と並んで本命視されたが、自民党分裂の原因である竹下派の内部分裂に責任があるとして辞退し、河野洋平総裁の下で政務調査会長に就任した。この野党時代に、小沢一郎の「日本改造計画」に触発されて、橋本は「政権奪還論」を著している。

自民党が与党に復帰した際、自社さ連立政権の村山内閣では、橋本龍太郎は通商産業大臣に就任した。大臣在任中、橋本は日米自動車交渉をまとめ、交渉相手の米国からも「タフ・ネゴシエイター」として高く評価されている。

第17代自由民主党総裁[編集]

迎賓館にてアメリカのビル・クリントン大統領(左)と(1996年4月17日)
1995年9月、橋本龍太郎は圧倒的な国民的人気を背景に自民党総裁選に出馬する。

当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎討ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶応大学出身の橋本の「早慶戦」、共に昭和12年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野洋平は自らが所属する宮澤派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂を生じるのを恐れる」として出馬を辞退する。そして、河野に代わって三塚派の小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」、「KK(慶慶)決戦」と評される総裁選が展開された[31]。

自民党総裁選の結果は、数々の役職を無難にこなし竹下派の支持を取り付けた橋本龍太郎は304票を獲得し、87票を獲得した小泉純一郎に圧勝した[4][32]。こうして、橋本龍太郎は、第17代自由民主党総裁に就任し、自民党幹事長には宮澤派の加藤紘一、総務会長には三塚派の塩川正十郎、政調会長には旧渡辺派の山崎拓を選任した。また、橋本龍太郎は総裁就任に伴って、村山改造内閣では副総理を兼務し引き続き通産相を務めた。

1996年1月11日に村山富市首相の辞任に伴い、橋本龍太郎は第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による「第1次橋本内閣」が発足した。内閣官房長官には、橋本らと共に竹下派七奉行と呼ばれた実力者である梶山静六が選任された。その後の施政方針演説では、橋本は改革の必要性を主張し、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。

橋本の就任当初は村山政権下で決定された住宅金融専門会社(住専)の不良債権に対する6800億円を超える財政支出問題について、新進党が「ピケ」と呼ばれる座り込み運動を展開して激しく抵抗し、メディアも否定的な論調を展開した。橋本政権は序盤から大きな批判、逆風にさらされた。ただし、海外市場では好感する動きが見られた[33][34]。

1996年2月23日にアメリカのクリントン大統領との首脳会談で橋本は普天間飛行場の返還を要求し[35]、4月12日に日米両政府が全面返還に合意した[36]。普天間の代替基地についても安全保障政策・環境政策が絡む中でアメリカや沖縄の基地自治体関係者と対談を行い、翌1997年12月24日には比嘉鉄也名護市長によるヘリポート受け入れ(辺野古移設)表明を取り付け[37]、普天間基地返還に本格的道筋を付けた。この結果、住専問題で逓減していた支持率は60パーセントに上昇した。

自身の59歳の誕生日である1996年7月29日に、橋本龍太郎は靖国神社を参拝した。

この現職の内閣総理大臣の参拝は、中曽根康弘が1985年の終戦記念日に初の公式参拝をして以来であった[38]。

同年の臨時国会冒頭の9月27日、橋本龍太郎は衆議院を解散する。そして、小選挙区比例代表並立制の下で初の衆議院総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席と復調した。選挙期間中は日本各地から橋本に選挙応援の依頼が殺到し、全国で「橋龍人気」と言われるほど国民的人気を見せ付けて自民党は大勝利した。

第2次橋本内閣[編集]

内閣総理大臣官邸にてアメリカのウィリアム・コーエン国防長官(左)と(1997年4月9日)

(中略)

1997年9月、橋本龍太郎は自民党総裁に再選され、内閣改造を行い「第2次橋本改造内閣」が発足した。橋本は梶山に代わって村岡兼造を官房長官に指名したほか、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を中央省庁改革などの担当である総務庁長官に起用した。これには、世間から多くの非難が集中し、佐藤は11日で辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘らの強硬な推薦に抗し切れず起用するに至ったという。この一件で、支持率は30%台に急落、橋本の責任を問う声が上がった[4][46]。

1997年11月のロシアのエリツィン大統領との首脳会談では、2000年までに平和条約を締結することや両国の経済協力を促進する事で合意した[47]。

1997年11月、橋本内閣は「財政構造改革法」を成立させて、2003年までの赤字国債発行を毎年度削減するなどの財政再建路線をとり、緊縮型の予算を組んだ[4]。しかし、その後、日本経済の景気減速が顕著となり、北海道拓殖銀行や山一證券などの経営破綻が起こると、自民党内やアメリカ政府から、さらに景気対策を求める声が増えていった。また、山一證券の破綻で、橋本内閣の掲げる6大改革の一つ「金融システム改革」および、それにに伴う「金融ビッグバン」への批判も相次いだ。これを受け1997年12月、橋本内閣は2兆円の特別減税を表明した。

(中略)

以下の内容、省略をしています。